2014年9月29日月曜日

渡辺勝三郎(当時の横浜市長)


鮮人襲来の如き荒唐無稽なる流言蜚語が行はれたのは、予が平塚を出発した当時からであつた。予はそれを聞いた時、淳厚単純なる地方民が徒らに宣伝から宣伝を生んだ虚構の節であるを感じ、智的洗練を経た都市人の一笑に黙殺し去つたものであらうと思つてゐた。勿論横浜市が此の不祥なる蜚語の源泉であらうとは感ぜず、又之が為めに全市が地震以上の無秩序と混乱に置かれてゐやうとは夢想だにもし得なかつた。

掠奪と此の蜚語とは益々秩序を撹乱し、人心を悪化せしめ、その底止する所を予想し得ないので、予は県庁に時の安河内知事を訪づれ「此の二問題は早く如何にかして解決しなければ、更に重大な危機を招来せぬとも限らない。その流言蜚語の如き、自からの影に恐れて脱がれ得ざる滑稽さに似てはゐるが、その滑稽事も放置すれば益々人心は悪化し、秩序は滅裂し、底止するなきに至るであろう。此際急遽戒厳令を布いて貰ふ方法を講ぜねばなるまい」と提言した。
横浜市役所『横浜市震災誌 第一冊』(1926年)

解説◎
渡辺市長[1872ー1940年]は地震が起きたとき、避暑のため平塚に滞在していた。徒歩で横浜に入ったのは3日。その惨状に驚いたと書いている。文中にある「掠奪」は、船会社の倉庫に被災者が殺到して食料そのほかを持ち去った騒ぎのことを指している。