2014年9月30日火曜日

伏見康治(物理学者・当時14歳)


「九月三日か四日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、『朝鮮人が攻めてくる』という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。 
ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。 
父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。 
僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げ込んだ。
『足が地につかない』という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。 
そのうちに『十二歳以上の者は防衛隊を組織しろ』という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ十二になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。 
僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとした。丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて、一件落着。 
しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。
(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


解説◎
伏見康治[1909 – 2008年]は物理学者で、名古屋大学名誉教授。「原子力三原則(自主・民主・公開)」を茅誠司(東大総長)とともに提唱した。2008年没。震災当時は現在の港区高輪に住んでいた。