2014年9月23日火曜日

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて……

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(梨本)宮様、表よりかけてならせられ、朝鮮人の暴徒おしよせ来り今三軒茶屋のあたりに三百人も居る、それが火をつけてくるとの事。
これは大へんと家に入、色々大切なる品々とりあつめ鞄(かばん)に入れ、衣服をきかへ、立のきの用意し、庭のテント内に集り、家中の人々、皆々庭に出、火をけし、恟々たる有様。日はくれる。心細き事かぎりなし。
遠くにて爆弾の音などする。
十時ごろ、よびこの音して町の方そうぞうしく、何かと思へば、今こっちへ朝鮮人にげこんだ、いやあっちと外は外にて人ごえ多く、兵は猟銃をつけ、実弾をこめてはしる。其内にピストルをうつ音、小銃の音、実に戦場の如し。
やがて又静かになる。今、宮益にて百数名、六本木にて何名とっつかまったとの事。夜通しおちつかず。一同テント内にて、夢うつつの如くしてくらす。

同年93

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて、神奈川県にて罪人をはなしたる故、それらの人々色々流言を以て人をさわがせ、朝鮮人も多少居ったにはちがひないが、皆悪るい心はなく思ひちがひのためひどい目に会ったものもあり、後それらの事わかり、悪くない朝鮮人はよく集め、ならし野(習志野)に送り保護する事となれり。
(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、91年)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

解説◎
梨本宮伊都子1882年に鍋島直大侯爵(旧佐賀藩主)の娘として生まれ、1900年に梨本宮守正と結婚した。朝鮮王族の李垠と結婚した娘の方子のほうが有名だろう。上に引用したのは、伊都子の震災の翌日、翌々日の日記の一部。梨本宮邸は渋谷の宮益坂にあった。

伊都子は、1899年から1976年までの80年間の日記を書き残した。小田部『梨本宮伊都子妃の日記』は、その内容を紹介し、時代背景とともに解説している。