2014年9月30日火曜日

「殺気立った民衆の犠牲であった」


竹内重雄(大井町住民)
「その翌日(3日)は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が二千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき。戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は十三歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の(不自由な?)善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった」

(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年) 

火に投げ込まれそうになった看護士


(看護士の岩田とみさんの経験。岩田さんは、被災者救援のために市役所で働こうと9月2日夜、看護服のままで板橋の職場から歩き始めた)

そしてやつとのことで燃えて居る上野の松坂屋の前まで来ると、そこらに居た人々が『そら朝鮮の女が逃げて来た』と叫びながらいきなり私を捕へて火の中へ投げ込まうとしました。私は自分が灰になるのはいとひませんが、その前に市の為に少しでも尽したいと思つていたところですから『朝鮮人ではありません看護婦ですよ』と叫びながら無我夢中で抜出しました。そしてこれは危ないと思ひましたので、保護してもらひたいために本郷警察署へ駆け出しました。すると警察の少し前の所でまた自警団員に捕まつてしまひました。『こやつもやったのだらう』と罵りながら散々こづきまはして私を警察署へつれてゆきました。
目を充血させた巡査が手に手に木剣を持ちながらどかどかと私を囲みました。誰かが私を殴りつけました。『まつて下さい皆さんに見せたいものがあります』私は一生懸命になつて叫びました。すると署長が『待て』と叫んで私を見つめました。私はかくしてから産婆と看護婦の免許状を出しました。賞状も出して見せました。すると皆手を返した様に優しくなりました。
(高崎雅雄『大正震災哀話』光明社、1923年11月)


解説◎
「大正震災哀話」は、この時期に多く出された震災実録物の一冊。様々なエピソードを集めたもの。

「バット」と言えないと日本刀で殺害


夜になりますとみんなふつうの住まいのところへは寝ないんです。なぜかというと、朝鮮人が暴れて来るというんでね。それでお前は火傷をして大変なんだからって、小松川の土手へ行って蚊帳をはって、その中へ寝かせてくれたんです。
そうすると表でドヤドヤと歩く音がするんですよ。何だと思ったら、朝鮮人を検査しているんですね。歩いている人に『これを読め』ってんで、朝日とかバットとか敷島とかのタバコを出して。それで、日本人でもずいぶんやられたと思うんですけど、バットってことを朝鮮人の人は言えないんですね。ハットとかなっちゃう。そうすると、『コノヤロウ』と言ってダーッと切るんですよ、日本刀ですよ。切り付けてそのまま行っちゃうんです、みんな自警団ですね。私なんか、土手にいてその現場を見ていたんですから。恐ろしいしね、寝ているどころじゃあないですよ。
朝鮮人の話は、おじさんの家に行ったとき。9月4日頃じゃあないのでしょうか。私は包帯巻きだから『お前は何だ』『朝鮮人だろう』なんて言われました。おじさんやなんかがよくかばってくれたんです。ちょうど小松川の土手へ行く手前のところですけど。
(『江戸東京博物館調査報告書10 関東大震災と安政江戸地震』2000年)


解説◎
被服廠で被災した小椻政男さんの証言。聞き取りは1990年。

被服廠の中でも殺された


2日の日に小松川までわたしたちゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りてケガ人も集まりました。その夜に朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹やりを持ったり、寝ていられずそれは大変でした。そのあいだに地震(余震)がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまりいいたくありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。
(『江戸東京博物館調査報告書10 関東大震災と安政江戸地震』2000年)

解説◎
被服廠で被災した宮崎勝次さんの証言。1990年に聞き取り。

後ろ手に針金で結わいて隅田川へ


朝鮮人騒ぎには怖い思いをしました。井戸に毒を入れたとか、襲ってくるとかそんな話が伝わって、みんなで警戒しました。よそ者を見つけては近所の若者が朝鮮人かどうか調べていました。君が代を歌えと言われて、東北から来た人は訛ってうまく歌えず、朝鮮人と間違えられたとも聞きました。
私も見ました。つかまって後手に針金で結わかれて隅田川に投げ込まれたのを。でも、どうかすると足だけでもうまく泳げます。しかし、逃げようとするところを、伝馬船に乗っている若者が鳶口で頭をたたく。血しぶきが立ち、そのうち沈んで行きました。
震災騒ぎが収まってから、日本堤警察署が犯人探しを始めて、朝鮮人を殺した者を留置所に入れました。あわてて近所のおばさんが来て、
『うちの子はみんなを守るためにやったんだから、警察には言わないでおくれ』
と言っていました。オールバックだった髪を丸坊主にした人もいました。変装か謹慎か分かりませんけれど。押入れに1か月も隠れて行方をくらました人もいたと聞きます。
(村松君子『思い出は万華鏡のように』朝日新聞出版サービス、2004年)

解説◎
『思い出は~』は、半生を振り返った本で、自主出版と思われる。村松氏は当時13歳で本所のライオン歯磨の工員だった。

伏見康治(物理学者・当時14歳)


「九月三日か四日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、『朝鮮人が攻めてくる』という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。 
ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。 
父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。 
僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げ込んだ。
『足が地につかない』という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。 
そのうちに『十二歳以上の者は防衛隊を組織しろ』という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ十二になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。 
僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとした。丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて、一件落着。 
しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。
(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


解説◎
伏見康治[1909 – 2008年]は物理学者で、名古屋大学名誉教授。「原子力三原則(自主・民主・公開)」を茅誠司(東大総長)とともに提唱した。2008年没。震災当時は現在の港区高輪に住んでいた。

2014年9月29日月曜日

渡辺勝三郎(当時の横浜市長)


鮮人襲来の如き荒唐無稽なる流言蜚語が行はれたのは、予が平塚を出発した当時からであつた。予はそれを聞いた時、淳厚単純なる地方民が徒らに宣伝から宣伝を生んだ虚構の節であるを感じ、智的洗練を経た都市人の一笑に黙殺し去つたものであらうと思つてゐた。勿論横浜市が此の不祥なる蜚語の源泉であらうとは感ぜず、又之が為めに全市が地震以上の無秩序と混乱に置かれてゐやうとは夢想だにもし得なかつた。

掠奪と此の蜚語とは益々秩序を撹乱し、人心を悪化せしめ、その底止する所を予想し得ないので、予は県庁に時の安河内知事を訪づれ「此の二問題は早く如何にかして解決しなければ、更に重大な危機を招来せぬとも限らない。その流言蜚語の如き、自からの影に恐れて脱がれ得ざる滑稽さに似てはゐるが、その滑稽事も放置すれば益々人心は悪化し、秩序は滅裂し、底止するなきに至るであろう。此際急遽戒厳令を布いて貰ふ方法を講ぜねばなるまい」と提言した。
横浜市役所『横浜市震災誌 第一冊』(1926年)

解説◎
渡辺市長[1872ー1940年]は地震が起きたとき、避暑のため平塚に滞在していた。徒歩で横浜に入ったのは3日。その惨状に驚いたと書いている。文中にある「掠奪」は、船会社の倉庫に被災者が殺到して食料そのほかを持ち去った騒ぎのことを指している。

田中貢太郎(作家)

自警団の暴行、朝鮮人虐殺その他

九月一日夜から数日間の帝都及びその附近に於ては、未曾有の大震災とそれに伴つて伝わつた出鱈目な流言蜚語のために、すつかり度を失つた民衆によつて、まことに恥づべきところの不祥なる出来事、戦慄すべき惨虐事が到るところに現出された。
即ち鮮人暴動の流言に血迷つた自警団の鮮人及び鮮人と誤つた内地人に対する虐殺事件である。この恐るべき事件は、五十日に亘(わた)つて新聞雑誌の報道を差止められてゐたが、十月二十一日その一部分は解禁されたので、全国新聞は一斉に筆を揃へて書き立て、更らにわれらの心を暗くさせた。
田中貢太郎/高山辰三『日本大震災史』(教文社、1924年1月刊)


解説◎
「自警団の暴行と朝鮮人虐殺」。震災の 4ヵ月後には、これが世の中の一般的な認識となっていたのである。田中貢太郎[1880-1941年]は実録ものや怪談で知られる作家。

2014年9月23日火曜日

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて……

192392

(梨本)宮様、表よりかけてならせられ、朝鮮人の暴徒おしよせ来り今三軒茶屋のあたりに三百人も居る、それが火をつけてくるとの事。
これは大へんと家に入、色々大切なる品々とりあつめ鞄(かばん)に入れ、衣服をきかへ、立のきの用意し、庭のテント内に集り、家中の人々、皆々庭に出、火をけし、恟々たる有様。日はくれる。心細き事かぎりなし。
遠くにて爆弾の音などする。
十時ごろ、よびこの音して町の方そうぞうしく、何かと思へば、今こっちへ朝鮮人にげこんだ、いやあっちと外は外にて人ごえ多く、兵は猟銃をつけ、実弾をこめてはしる。其内にピストルをうつ音、小銃の音、実に戦場の如し。
やがて又静かになる。今、宮益にて百数名、六本木にて何名とっつかまったとの事。夜通しおちつかず。一同テント内にて、夢うつつの如くしてくらす。

同年93

追々考へてみると、朝鮮人の暴徒は全くうそにて、神奈川県にて罪人をはなしたる故、それらの人々色々流言を以て人をさわがせ、朝鮮人も多少居ったにはちがひないが、皆悪るい心はなく思ひちがひのためひどい目に会ったものもあり、後それらの事わかり、悪くない朝鮮人はよく集め、ならし野(習志野)に送り保護する事となれり。
(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、91年)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

解説◎
梨本宮伊都子1882年に鍋島直大侯爵(旧佐賀藩主)の娘として生まれ、1900年に梨本宮守正と結婚した。朝鮮王族の李垠と結婚した娘の方子のほうが有名だろう。上に引用したのは、伊都子の震災の翌日、翌々日の日記の一部。梨本宮邸は渋谷の宮益坂にあった。

伊都子は、1899年から1976年までの80年間の日記を書き残した。小田部『梨本宮伊都子妃の日記』は、その内容を紹介し、時代背景とともに解説している。

2014年9月12日金曜日

東京酷熱百五十度【震災直後のデマ記事◉怪現象編】


東京酷熱百五十度  |  名古屋新聞第2号外9月4日付



本文は「東京は目下華氏百五十度の熱度にて避難民は到底此苦熱に堪へず死亡する者数知れずと」。華氏150度というと摂氏65度! ないない。




新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

2014年9月11日木曜日

名古屋も全滅?【震災直後のデマ記事◉被害誤報編】

名古屋も全滅?/詳細いまだ不明  |  小樽新聞第3号外9月3日付




もちろん誤報。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

品川も海嘯で全滅 【震災直後のデマ記事◉津波編】


品川も海嘯で全滅  |  大阪毎日新聞第2号外9月2日付



誤報です。品川に津波は来ませんでした。

新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

大地震の原因は槍ヶ嶽の爆発【震災直後のデマ記事◉噴火編】


大地震の原因は槍ヶ嶽の爆発  小樽新聞号外9月2日付




「大地震の原因は日本アルプスの槍ヶ嶽の爆発と判明した」。断言してますねー。




新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

震源地は天城山/横浜全市海底に没して跡方なし【震災直後のデマ記事◉噴火編】

震源地は天城山/横浜全市海底に没して跡方なし  荘内新報号外第12報日付不明




横浜市沈没! 
さらに畏れ多くも本文には「遂に皇居延焼せるを確認」とも。もちろん誤報。



新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

地震に加えて海嘯襲来【震災直後のデマ記事◉津波編】


地震に加えて海嘯襲来  |  小樽新聞号外9月2日付



本文に「深川洲崎方面は全部海水と化し救援隊も手の下しやうなく海神の荒狂ふに任せつつあり」とありますが、誤報です。

地震と聞いて誰もが津波の心配をしたこと自体は無理からぬ話ではあります。ちなみに内務省『大正震災志』(1926年)のデマ記事例には、樺太日日新聞の「上野山下に津浪/物凄く渦まいて襲来/南無阿弥陀仏を唱ふる声天地に満ちて凄惨」という記事も載っています。なんと震災翌日の9月2日午後に上野を大津波が襲ったという談話記事です。「物凄く渦巻立てた大津浪が山麓へ襲来した。私は其時上野の山にゐたが上野山に避難した約百万の人は口々に一斉南無阿弥陀仏の名を唱へてゐる有様は実に悲惨極まるものであつた」そうです。



新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

伊豆大島沈下【震災直後のデマ記事◉伊豆諸島編】

伊豆大島沈下  |  軍港新聞第4号外9月4日付





この記事では伊豆大島だけが沈んでいますが、内務省『大正震災志』(1926年)には、
「小笠原伊豆諸島は全く消息皆無であるが海上視察者の談に依ると同所附近の一帯は海中に没し総ての島はなかったと」
という岩手新聞の虚報記事が紹介されていますね。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

市ヶ谷囚人解放【震災直後のデマ記事◉被害誤報編】

市ヶ谷囚人解放  |  京都日出新聞附録9月3日付






誤報です。刑務所で囚人を解放したのは横浜だけ。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

駅員三千五百名全部圧死/酸鼻を極めた東京駅 【震災直後のデマ記事◉被害誤報編】

丸ビルで数千人/印刷局で三千名/東京電気で六百名の人夫、職工即死す
駅員三千五百名全部圧死/酸鼻を極めた東京駅  |  小樽新聞9月4日



印刷局や東京電気は確認できませんが、丸ビルと東京駅は無傷でした。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

新島出現す/大島が見えない【震災直後のデマ記事◉伊豆諸島編】

新島出現す/大島が見えない  |  名古屋新聞第2号外9月6日付




千葉県警察が発表したそうです。ホントかなあ。伊豆大島は沈没して手前に新島が現れたと。なんで普通に大島が見えているだけと思わないんでしょうかね。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

二十余名圧死【震災直後のデマ記事◉訃報編】

高橋政友会総裁以下二十余名圧死  |  静岡民友新聞94日付



高橋総裁とは高橋是清のこと。誤報です。死んでません。
最近はアベノミクスとの類似で1930年代の高橋財政が言及されることも多いですが、1936年に二・二六事件で暗殺されるはるか前にメディアに殺されていたようですね。
ちなみに倒壊したはずの政友会本部では、この日以降も被災者支援策の議論が続いています。

新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より。

東京市は大豪雨/避難民は大狼狽死者続出す【震災直後のデマ記事◉怪現象編】

東京市は大豪雨/避難民は大狼狽死者続出す  |  福岡日日新聞第2号外日付不明



9月3日は確かに雨が降りましたが、死者続出は大げさ。どんだけ豪雨なんだよ。


新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

山本首相暗殺??【震災直後のデマ記事◉訃報編】


山本首相暗殺??  |  荘内新報号外第9報9月2日




もちろん誤報。朝鮮人暴動は言うに及ばず、その上、摂政宮(後の昭和天皇)が行方不明とまで。
しかし大見出しの「??」から始まって最後は「但し吾人は是等の報導の希くは嘘報ならん事を祈るものなり」ってそこまで自信ないなら書くなよなー。

震災の時は、これ以外にも、国民新聞社主の徳富蘇峰や安田財閥の安田善次郎などが、生きながら死亡記事を書かれてしまいました。

新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より

秩父連山大爆発/噴煙天に冲す【震災直後のデマ記事◉噴火編】

秩父連山大爆発/噴煙天に冲す  | 大阪毎日新聞第2号外9月2日付





大地震の原因もこれだと。
反骨とユーモアで知られるジャーナリストの宮武外骨は「火山脈でもない秩父山脈が噴火したといい、その噴煙が天に冲したとは無稽の妄説」と容赦ない。高崎方面からは秩父山脈の噴火に見えたので「あわて者の通信員が軽率に発信したのだろう」とも。


内務省『大正震災志』(1926年)で紹介されている「九月一日午前六時富士山爆発したるものの如し」(台湾日日新聞)の実物も紹介したかったけど、見つかりませんでした。ちなみに関東大震災の震源地の正解は「相模湾沖」です。現在の研究では「相模湾から房総半島におよぶ地域」が「震源域」とされていますね。




新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より


地震に加えて海嘯襲来【震災直後のデマ記事◉津波編】


地震に加えて海嘯襲来  |  小樽新聞号外9月2日付




本文に「深川洲崎方面は全部海水と化し救援隊も手の下しやうなく海神の荒狂ふに任せつつあり」とありますが、誤報です。


地震と聞いて誰もが津波の心配をしたこと自体は無理からぬ話ではあります。

ちなみに内務省『大正震災志』(1926年)のデマ記事例には、樺太日日新聞の「上野山下に津浪/物凄く渦まいて襲来/南無阿弥陀仏を唱ふる声天地に満ちて凄惨」という記事も載っています。
なんと震災翌日の9月2日午後に上野を大津波が襲ったという談話記事です。「物凄く渦巻立てた大津浪が山麓へ襲来した。私は其時上野の山にゐたが上野山に避難した約百万の人は口々に一斉南無阿弥陀仏の名を唱へてゐる有様は実に悲惨極まるものであつた」そうです。

松方正義【震災直後のデマ記事◉訃報編】

震災で負傷後遂に薨去した松方正義公  | 京都日出新聞日夕刊



「不幸今回の厄災に薨去を伝えられたは惜しみても尚余りある。享年89歳」と本文にありますが…誤報です。足をケガしただけ。略歴まで載せちゃって…。
「松方デフレ」という言葉は教科書で習った記憶がある人も多いのでは。首相も務めた人です。しかし翌年には本当に亡くなってしまいました。享年90歳。

新聞記事画像は新聞資料ライブラリー『シリーズその日の新聞 関東大震災(上)激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)より



2014年9月10日水曜日

宮武外骨 │ 日鮮不融和の結果

宮武外骨
今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。 

(宮武外骨『震災画報』「日鮮不融和の結果」ちくま学芸文庫、2013年)



解説◎宮武外骨は1867年生まれのジャーナリスト。『滑稽新聞』『スコブル』など、反骨とユーモアにあふれた独特の雑誌を生み出し続け、今に至るも表現にかかわる人には多大な影響を与え続けている。『震災画報』は震災の3週間後から翌年1月まで、6冊が発行された。

2014年9月5日金曜日

黒澤明【映画監督】の証言


黒澤明【映画監督。当時中学2年生】

“ 私はあきれ返った。
何をかくそう、その変な記号というのは、
私が書いた落書だったからである”


その夜(1日夜)人々を脅かしたものは、砲兵工廠の物音である。(略)時々、砲弾に引火したのか、凄まじい轟音を発して、火の柱を吹き上げた。その音に人々は脅えたのである。私の家の町内の人々の中には、そのおとは伊豆方面の火山の爆発で、それが連続的に火山活動を起しつつ、東京方面に近付いているのだ、とまことしやかに説く人もあった。(略) 焼け出された親戚を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。/私はドキドキして一緒だった兄を見た。/兄はニヤニヤしている。/その時、/「馬鹿者ッ!」/と、父が大喝一声した。/そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。/仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。/ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないと云うのだ。/何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。/私はあきれ返った。/何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。 私はこういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。

(黒澤明『蝦蟇の油―自伝のようなもの―』岩波現代文庫、2001年。初刊は1984年)

清川虹子【女優】の証言

清川虹子【女優。当時12歳。震災時は上野音楽学校へ避難】

“ 男たちは、手に手に棒切れをつかんで、
その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ
恐怖でふるえながら、
それを見ていました”

朝鮮の人が井戸に毒を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日(9月3日)です。/
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。 だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。
すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。
あとで、すべてはデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。
朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。
小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。 大震災のあとに起きたこうした事件のかずかずは、これに遭遇した人のいろんな本に、それぞれの体験として書かれていますが、それは火や激震そのものよりもずっと恐ろしく、ぞっとする人間のドラマだったと思うのです。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)


蘇峰生(徳富蘇峰)「流言飛語」

蘇峰生(徳富蘇峰
流言飛語は、専制政治の遺物。支那、朝鮮に従来有り触れたる事也。蝙蝠(こうもり)は暗黒界に縦横す。吾人は青天白日に、蝙蝠の飛翔するを見ず。
公明正大なる政治の下には所謂(いわゆ)る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然(しか)も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯(かか)る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。
既往は咎めても詮なし。せめて今後は我が政治の一切を硝子板の中に措く如く、明々白々たらしめよ。陰謀や、秘策にて、仕事をするは、旧式の政治たるを知らずや。

(「国民新聞」1923年9月29日付、『朝鮮人虐殺関連史料』緑蔭書房、2004年)

警視庁『大正大震火災誌』第五章 治安維持 第一節


警視庁『大正大震火災誌』第五章 治安維持 第一節
441頁) 

震火災に依りて、多大の不安に襲はれたる民衆は、殆ど同時に、又流言蜚語に依りて戦慄すべき恐怖を感じたり。
大震の再来、海嘯の来襲、鮮人の暴動などと言えるもの即ちそれなり。
大震海嘯の流言は、深き印象を民衆に与ふる程の力を有せざりと雖も、鮮人暴動の蜚語に至りては、忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く、且民衆の大多数は概ね有り得るべき事なりとして之を信用せしかば○に震火災より免れたる、生命、財産の安全を確保せんが為に、期せずして、各々自警団を組織し、不逞者を撃滅すべしとの標語の下に鮮人に対して猛烈なる迫害を加え、勢の激する所、終に同胞を殺傷し、軍隊警察に反抗するの惨劇を生じ、帝都の秩序将に紊乱せんとす。而して、之が為に、罹災地の警戒及び避難者の救護上に非常なる障碍を生じたるのみならず、延て朝鮮統治上に及ぼしたる影響も亦甚だ多く、誠に聖代の一大恨事たり。
(原文カナ・読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています)

解説◎
大正大震火災誌』は関東大震災時の警視庁の行動をまとめた報告で、1925年に刊行された。
引用箇所は治安維持を扱った第5章の冒頭に置かれた総括的な一文で、このあと、流言飛語の取締りや朝鮮人の保護、自警団…といった内容が続く。
大正大震火災誌』は国立国会図書館近代デジタルライブラリーに収められ、ネット上で閲覧できる。

山根真治郎「誤報とその責任」

山根真治郎「誤報とその責任」1941年、内外通信社出版)p.108

風説をそのまま掲載するのは初期時代の新聞で、風説は寧ろ大切なソースであった。
悪質な風説は事変とか争乱とか天災地変のやうな時に多く発生する。
大正12年の関東大震災の時は人心徨惑して風説百出し、さしも冷静を誇る新聞記者も遂に常軌を逸した誤報を重ねて悔を千歳に遺した事は今なほ記憶に新たなる処である。
曰く在留朝鮮人大挙武器を揮って市内に迫る、曰く毒物を井戸に投入した、曰く徳富蘇峰圧死す、曰く激浪関東一帯を呑む…数えるだにも苦悩を覚える。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

解説◎
山根真治郎は1884年(明治17年)生まれ。明治末期から新聞記者として時事新報、国民新聞、東京新聞などいくつもの新聞社で活躍し、「新聞の鬼」と呼ばれた。後進を育てるため、「新聞学院」も創設している。

正力松太郎(震災当時・警視庁官房主事、後に読売新聞社主)

正力松太郎「米騒動や大震災の思い出」読売新聞社19442月。
(正力『悪戦苦闘』日本図書センター、1999年)

朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不逞の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署へ赴きました。
当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。
私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き参謀長寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恐々としておりました。
しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。

解説◎
太平洋戦争末期に、正力松太郎[1885 ー 1969年]が警視庁で行なった講演の記録を読売新聞がまとめたもの。米騒動や関東大震災など、警視庁時代の経験について正力が回想する内容。

神奈川警備隊司令官の回想

奥平俊蔵著/栗原宏編『不器用な自画像』(柏書房、1983年)

騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして彼等は自ら悪事を為し之を朝鮮人に転嫁し事毎に朝鮮人だと謂ふ。
適々市の郊外に朝鮮人多かりしを以て朝鮮人暴動の噂を生み迅速に東京其他の各地に伝播せるものにして、朝鮮人襲来と称し人心に大恐慌を来せる発起点は横浜なるものの如し。
横浜に於ても朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投込み、放火其他各種の悪事を為せしを耳にせるを以て、其筋の命もあり、旁々之を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
横浜での騒擾について、関東大震災時に神奈川警備隊を指揮した奥平俊蔵中将が書き残した内容。『不器用な自画像』は、1926年(大正15年)から1940年にかけて、家族のために書き残していた自叙伝を編集したものである。奥平は1875年(明治8年)生まれ。1924年に中将で退役。その後も「軍事思想の普及、国体明徴運動、国民士気の作興」に尽力したという(同書解題)。