あの晩、私は入谷の市電車庫にある電車の中で泊まったんですよ。
朝鮮人騒ぎで、若い男が警備にあたっていました。
そこに、電車の運転席の下についている網の中で寝ていた人がいましてね。
だれかが、その人をみて『朝鮮人だ』って叫んだんですよ。
その人、びっくりして逃げ出したんです。そしたら追っかけた憲兵が頭を一突きにしてしまいましたよ。
その人、最後の力をふりしぼって、ポケットの中から木の札を出したんです。
それが車掌の証明書だったんですね。日本人でしたよ
(松野富松、当時11歳で浅草在住)
朝鮮人が井戸に毒を入れたというので水も飲めなくなり、自警団がつくられました。
六郷の土手に検問所ができて、朝鮮人は土手の桜に縛りつけられていたそうです。
川崎の私の家の前にも検問所ができて、棒でたたかれて死にそうになっている人を見ましたよ。
なんでも、その人は身なりが悪いという理由だったそうです
(飯山鈴子、当時7歳で川崎在住)
(略)それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。
どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。
ほんとうに戦争みたいだった
(萩原つう、当時15歳で恵比寿在住)
隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
(稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)
(「週刊読売」1975年9月6日号「50人証言 関東大震災」より)
注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。
注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。
解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(1975年9月6日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名の50人に当時の経験を語ってもらうもの。そのなかで朝鮮人迫害に関連する証言のうち印象的なものを、上にピックアップした。最後に挙げた稲垣浩以外は無名の人々だ。