(9月3日)御所より帰途市ヶ谷見付にて町内世話人三武氏に遇ふ。
土手三番丁も今夜より不逞の徒警戒のため夜警を出すこととなりたる故、各家より男一人宛出せとの勧告あり。
依って熟考の上自らも夜警の任に当らんと約して帰宅す。
即ち自らは、前夜半の直に当ることとし、町内巡回夜讐を勤む。
警戒配置を定むるも、烏合の衆にて中々にうまく行はれず。
配置の哨兵はほしいままに哨所を離るること多く、平日軍事教育の必要はかかる場合において痛切に感得せられたり。
夜警の人々は何(いず)れも日本刀を佩(お)び、あるいは拳銃を携行、危険限りなし。
警戒の人々何れも甚しく興奮の姿あり。
此の一夜尚ほ二回の滑稽を演じたるあるをここに記さん。
一、午後十一時頃、四谷側濠縁にて盛に非常喇叭(ラッパ)を吹奏し、提灯は右往また左往呼子を吹いて喊声(かんせい)を発し、通る自動車を呼び止めては水面を照射せしむ。
土手三番丁側また多く濠縁に降り、騒々しきこと言語に絶す。
其内銃声を聞くこと数回なり。
而して遂に何等獲物なく、十一時半頃皆失望の姿にて旧位に復す。
これは遂に何事か明かに知る由なかりしも、実は翌朝独り土堤上を巡視せしに、濠内に三羽の鵜あり。
頻りに餌を探しつつ水面に出没するを見たり。
此夜不逞鮮人御濠の内を泳ぎ廻り、水面波紋を見たる鮮人とは恐らく此事なるべし。
疑心暗鬼とは此のことなるべし。
二、午前一時頃哨兵二名大声疾呼して日く、「只今鮮人が電車内に爆弾を抛(ほう)り込み、車内に爆裂して避難者多数を殺戮す」と。
如何にも真しやかなり。
我れは此附近に在りしも嘗て其頃爆発を聞かず。
駈けて現場附近に至れば、すでに一同集団して極めて騒々しく、さりとて電車に逼りそうにも見えず。
ただに遠巻きの有様なりければ、予は横槍を出し、暫時一同の静粛を希望し、電車よりの訴を聞くに、「悪うございました。不注意で提灯を燃焼しました。なにも怪我等はありませんから御安神を願ふ」との滑稽なり。
先づ先づ一同笑ひ話にて解散、配置に就かしむ。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。
解説◎
四竈孝輔(しかま・こうすけ)は[1876 - 1937年]海軍軍人(中将で退官)で、震災当時は宮内庁で侍従武官を務めていた。
『侍従武官日記』は彼が1917年から26年まで記していた日記を刊行したもの。震災当時は少将で、1925年に中将で退官した。
引用した上の箇所には幻におびえて右往左往する人々の姿が描かれている。これは当時の自警団をめぐるひとつの典型的な光景と言ってよい。そして、そこに含まれている可能性に想像を働かせていただきたいと思う。
前者の事例では、四竈が翌朝、お堀を泳ぐ「不逞鮮人」の正体が鵜であったことに気づく。だが、それに気づかないままの人が新聞記者の取材を受ければ、「お堀に潜んで何事かをたくらむ朝鮮人の恐怖」といった記事が出来上がるだろう。あるいは、もし実際に迫害を逃れた朝鮮人がお堀に隠れていたとしたら、「銃声を聞くこと数回なり」とあることを思えば、彼は何も悪事を行っていないのに撃たれて死んだかもしれないということだ。
後者の事例では、提灯を燃やしてしまっただけのことが、電車内に朝鮮人が爆弾を投げ込んで多数の死者が出たという話にあっという間に発展してしまう伝言ゲームの恐ろしさが描かれている。
当時の異常な心理状況を想像させるエピソードだが、これもまた、事実が確かめられないままで噂が広がれば、「朝鮮人が爆弾、死傷者続出」という記事になったかもしれないし、あるいはこれを耳にした自警団の誰かに、朝鮮人への報復感情をおおいに煽ったかもしれない。