2014年10月17日金曜日

現在の両国・国技館附近での虐殺



(九月)五日の日であった。
「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時か死して行く。
死せし者は隅田川にと投げ込む。
その物凄さ如何ばかり。我同胞が尼港にて残虐に遭いしもかくやと思いたり。
ああ無慙なるかな。
中には良き人もありしに、これも天災の為にて致方なし。
(成瀬勝『大震災の思い出』非売品、2000年)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
震災当時20歳で、深川区相生町の左官材料問屋で奉公していた成瀬勝さん(1932年年没)が残した手記を、親族の方が2000年に出版したもの。手記そのものは、震災の翌年に書かれている。手書きの原文を新かなで活字化している。
惨劇があった「御蔵橋」とは、当時、隅田川から引かれた入堀の上にかかっていた橋で、今で言うと、両国の国技館の正面にあたる。御蔵橋の位置を示す立て札が今も残っている。

御蔵橋での虐殺については、ほかにもいくつかの証言があるほか、日本人誤殺では立件された事件もある。

「尼港にて~」とあるのは、震災の3年前にあった「尼港事件(1920年2月)」を指す。