2014年10月15日水曜日

船橋警察署巡査部長の手記/船橋駅前での虐殺

大正十二年九月四日午後一時頃、元吉署長から、「北総鉄道工事に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引継いで、習志野の捕虜収容所に連れて行くように。」と命ぜられた。
私とほか数人の警察官が出掛けて行き、天沼の附近まで行くと、騎兵が前後について手を縛られている朝鮮人約五〇人位が列をなしてやって来た。
私達はその騎兵に手を拡げて、「この人達を我々に渡してくれ!」とお願いした。すると騎兵隊は、「船橋の自警団に引き渡せと命令を受けて来たので、駄目だ。と聞き入れてくれなかった。
「若し船橋に行くと皆殺しにされるから、引き渡してくれ」と押し問答しているうちに、丁度その時、船橋駅附近で列車を停めて検索していた自警団や、避難民の集団に発見された。
警鐘を乱打して、約五百人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。
私は、ほかの人達に保護を頼んで、群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った。
署に着いて元吉署長にその状況を報告すると、署長は、「警察の力が足りないので致し方ない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ。」と命ぜられた。
私が直ぐ引き返していくと、途中で、「万歳!万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。
現場に行ってみると、地獄のありさまだった。
保護に当っていた警察官の話では、「本当に、手の付けようがなかった。」とのことであった。
調べて見ると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた。人間が殺される時は一ヵ所に寄り添うものであると思い、涙が出てしかたがなかった。
後で判ったことであるが、船橋の消防団員が、朝鮮人の子ども二人を抱えて助け出し、逃げて警察に連れて来たとのことだった。少しは人の情というものが残っていたと思った。
五三人の屍体は、附近の火葬場の側に一緒に埋めたが、その後、朝鮮の相愛会の人達が来て、調査するとのことで屍体を焼却して散乱してしまった。
      千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』青木書店
      に収録された渡辺良雄さんの手記「関東大震災の追憶」から。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
震災当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんによる手記。渡辺さんはその後、千葉警察署長まで務めて退職し、千葉市助役を経て戦後は千葉県議会議員に(4期)。所属は自民党である。手記のこの部分では、船橋駅前での虐殺の状況が記録されている。同時に、朝鮮人団体が来る前に遺体の隠蔽工作をしたという記述が重要だ。「相愛会」は、後に衆議院議員ともなった親日派(対日協力者)の朴春琴(パク・チュングム)らが創設した在日朝鮮人団体。