(略)余震が絶えなかつたので、さらでだに再び大地震大海嘯の来ることを予想し、何れも不安に陥つて居る際、誠しやかに大地震の再起、大海嘯の襲来を各地に伝へ、又た不逞鮮人の暴行、解放囚人の掠奪等罹災民を脅威するの流言飛語相次で起り、偶々一部不逞者(注)の暴行掠奪などがあると針小棒大に伝はり人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何に之を安定せしめんとしても容易に緩和されず、震後三、四日で軍隊の出動、応援警察官の来援があつても不安状況はなかなか去らなかつたのである。
震災翌日から県下到る所に結成された所謂自警団は竹槍、刀剣や甚しきは銃器を携帯して集団避難民又は部落を警固し、且つ不逞者に備ふる等、不穏の状態を現はして来たが、彼等は統率者なき烏合の衆なので、動(やや)もすれば無辜の民を殺傷し、夜間同志打の悲喜劇を演じ、震、火災の惨禍には万死に一生を得ながら、不幸茲(ここ)に命を落す者も少なからずあつて自衛の域を超えて警察本然の権力行使をも為し、甚しきは殆んど暴民と異なるなく、違警状態は随所に発生し、取締に多大の困難を来し、鋭意其の不法を諭示して不法行為なからしむることに努めたが応ずる者極めて稀で、却て反抗的気分を以て対抗し来るものあり…(略)
(西坂勝人『神奈川県下の大震火災と警察』警友社、1926年)
解説◎
西坂勝人は当時、神奈川県警察部の高等部長。注とした部分の「不逞者」とは、ここでは、横浜市内各地で略奪を展開した山口正憲一派や、倉庫に押し寄せて生活必需品を奪った被災者たちのことを指していると思われる。この文章では、警察が冷静に対応したように書いているが、必ずしもそうではなかったことに注意して読むべきだろう。詳細は不明だが、横浜では、警察署長が「朝鮮人は殺してもよい」と言ったとか、あるいは警察官が自ら朝鮮人を殺害したという証言もある。