○鮮人に就いて兎角の風評高し神奈川県罹災状況(1923年9月4日、神奈川県知事・安河内麻吉)
一日の地震に際し、横浜の刑務所を開き、在監囚支那人鮮人合して約一千名を解放せり。
此事が大いに市民に恐の念を懐(いだ)かしむ。
即ち良民青年団員は自衛上必要として自ら武器を以て起ち、警官を助けて警察保安に任ぜしが、民心激昂の際とて、鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず。
一方鮮人側に在りでは解放の後ち獄衣を普通衣に改めんとして良民を剽剥ぎするもの多く、また何分には施米は邦人を先きに、鮮人に容易に及ばざる関係上、飢渇を覚えては邦人の糧食を無理に強奪するものあり。
これらの乱暴が甲より乙に伝はり、また丙に漸次噂に噂を生じ、はては「鮮人隊伍を組み銃器を携へて襲来し、掠奪凌辱を檀にす」との揚言高く、青年団員の激昂殆ど其の頂に達し、前記の始末に及びたる次第なりと。
かくて鮮人は、良民たると暴徒たるとの差別なく、到底市に止まるを得ず。
身を以て免かれて杉田、金沢、保土ヶ谷など諸方に遁走せしが、これらがまた地方騒擾の原因を作し、現に、杉田、金沢方面の住民は痛く鮮人を恐れて、急を追浜航空隊に報じ救援を求むること切なり。
即ち、航空隊よりは、五人あるいは八人と、小人数の隊伍を各地に派遣し、警戒に任ぜしむ。
一人も現行犯ある鮮人を見出さざりしと言ふ。
兎に角鮮人にして我邦に反感を抱くもの此の天災を機としてあるいは放火し、または掠奪し、井水に毒を投じて毒殺を計り、爆弾を使用して邦人を暗殺し、婦女子を凌辱して獣欲を逞しうするの悪漢固よりこれなきを保せず。
必ず噂の生ずる所其の真原因あるべきも、また良鮮人にして不幸これら暴徒と同一視せられたるもの必らず多かるべく、これらの人にしては実に気の毒に堪へざる次第なり。
鶴見にては、警察官の処置宜しきに叶ひ、早く良鮮人三百人を一団として警察に保護し、禍を未前に防ぎ得たりと。
川崎鶴見程ヶ谷方面鮮人に対する諸種の流言輩語盛に行はれ、人民競々たりしも、事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています
解説◎
横浜に派遣された侍従武官・四竈孝輔(しかま・こうすけ)海軍少将[1876 - 1937年]が、安河内県知事から聴取した内容をまとめたもののうち、朝鮮人関連の項。
「隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」であり、「一人も現行犯ある鮮人を見出」せなかったにもかかわらず、「鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず」という状況であったことを伝えている。
地震発生から4日目で、まだ深刻な混乱が続いていた時期のものなので、事態の全貌が掴めず、〝 横浜刑務所から解放された朝鮮人が追いはぎをした〟といった不確かな情報も混じっている。
横浜刑務所の解放は事実だが、囚人にとくに朝鮮人が多かったということはないだろう。
念のため加えて書き添えておけば、「固よりこれなきを保せず」とは、「もちろんないとは言い切れないが」という意味である。
朝鮮人による暗殺などもあったが…という意味ではない。