闕下(けっか)に奉呈せし【せんとし】待罪書
臣新平嚢に大命を拝し之を内務大臣の要職に承く時恰(あたか)も関東地方大震災の直後にして人心恟々物情騒然たり。臣任に就きて夙野戦兢善後の策に腐心すと雖(いえども)敢て此の重責を果す能はざらむことを惧(おそ)る。幸にして爾後治安の維持成り人心安定を得近く戒厳の変態を撤して平常の状態に復することを得たり。是れ偏へに陛下の御稜威と陸海軍将卒努力の結果とに依る。
今次未曾有の震災は所在に火災を起し大火は遂に内務省に及べり、当時庁員の大半は其の安全を確認して既に退庁したるも残留の庁員必死防火に努むるあり、四辺悉皆火災の中に在りて独り社会局は其の全きを得たり而(し)かも内務本省は遂に類焼の厄を免れず、僅(わず)かに重要書類の一部を搬出し得たるに止まり、庁舎竝(ならびに)書類の大部を烏有に帰せしめたるは臣の最も遺憾とする所なり。
震災後に於ける異常なる人心の不安に伴ひ流言飛語盛に行はれ秩序漸(ようやく)く萎れむとするや民人自衛の方途として各地到る処に自警団の組織を見たり、然(しか)るに此の時に際し鮮人妄動の浮説忽然として発し一犬虚に吠へて万犬実を伝ふるに至り、眼前に展開せられたる惨害を以て鮮人の所為に帰せむとするものあり、而(し)かも取締の官吏極力之が防遏に努めたるも遂に人心極度に興奮して常軌を逸し自警団中には自制を失して暴挙に出でるものあるに至り為に無辜の民にして殺傷せられたる者少なからず。臣新平治安保持の重任を辱め事此に至らしむ誠に恐懼措く所を知らず。
茲(ここ)に臣の責任に関し状を具して以て 聖鑑を仰ぎ伏して罪を閥下に待つ 臣新平誠恐誠惶謹みて奏す
大正十二年十一月 内務大臣 後藤新平
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
解説◎
闕下とは天皇の前に、ということ。「待罪書」とは、自らの罪を明らかにして進退を伺う書のこと。震災翌日の9月2日に内務大臣に就任した後藤新平(1857~1929年)が、同年11月に、天皇に奏上することを想定して清書し、手元においておいたもの。死後に残されていた「後藤新平文書」の一つ。
冒頭に、【せんとし】とあるのは、後藤本人がそのように書き添えたもの。【 】でくくったのは、読みをあらわすために当サイトで書き入れた( )と区別をつけるためである。
後藤はこの文章で、内相として進退を伺うほどの罪(天皇に対する)として、内務省の全焼と流言飛語による朝鮮人の虐殺を挙げているわけである。
工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(その“新版”が加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』)では、後藤が朝鮮人暴動の実在を隠蔽するために芝居を打ったという文脈でこの文章の一部が引用されている。後藤は天皇にまで「芝居」を見せるつもりだったというのだろうか。
彼らの空想物語に付き合わずに虚心に読めば、これは後藤が朝鮮人虐殺を防げなかった責任を「罪」として語っている文章ということになる。
しかも、工藤美代子/加藤康男は、上の文章から「震災後における~」以降を引用するにあたって、「一犬虚に吠へて万犬実を伝ふるに至り」「而(し)かも取締の官吏極力之が防遏に努めたるも遂に人心極度に興奮して常軌を逸し」の2箇所を(略)と示すこともなくこっそり略している。上の引用では、その部分を青の太字で示した。
工藤らは一応、「長文なので概略のみ引用したい」と断り書きを添えているが、流言の虚構性や自警団の異常さを強調した部分を、あえて削っていることが、通読してみるとよく分かる。
ちなみに、工藤夫妻は、後藤がこの「待罪書」を実際に天皇に奏上したと断言しているが、これは全くの誤りである。実際には奏上しないで終わったものだ。