北陸タイムス1923年10月14日
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】
五十八名の労働者を数珠(じゅず)繋ぎにして虐殺
流言蜚語に迷って逆上していた/熊谷自警団の大暴虐
【東京電話】
九月八日午後四時震災のため東京府下から避難して来た労働者五十八名が市外板橋に設けられた臨時憲兵分遣所の取調べを受た結果、一時検束の必要を認め、高崎へ護送すべく、五十八名のものはことごとく両手を細引で縛り数珠繋ぎにし、十二名の警官これを護衛し、中仙道を埼玉県熊谷町に向かふた処、附近沿道の自警団多数の野次馬も加はり前後両側を取囲んで熊谷町分署についた。
この時熊谷在郷軍人分会員は、右五十八名の労働者は分会の手で一先づ保護すべく引渡し方を交渉したのであるが、護送の警官が応じないのでそのままに本町通りへ入った。
それより先熊谷町自警団員は前日来の流言蜚語のため恐怖の念に駆られ、消防組を中心に自警団員に附近村民も加はり、日本刀棍棒竹槍を携へ、町内が警戒するに共に、一方列車が着車するごとに列車内の怪しきものを警戒しつつある際、前記護送されて来た労働者を見るや、多数の自警団員は大挙して喊声をあげつつ本町通りに一行を襲ひ、数珠繋ぎのままの横合から凶器を振って一斉に斬り付け、又殴り倒したが、縛られているため逃げ出すことができず、悲鳴を揚げて助けを乞ふも何の容赦なく、熊谷寺との間三町余りの街路で惨酷にも虐殺してしまひ、これを見ていた警官も手の下しやうなくただ傍観するより外なく、町民もさすがに自警団の暴行に顔をそむけ、血に染って横はる死体を見て同情の涙を注いだ。
さしも獰猛を極めた自警団の引き揚げたのは午後十時であったが、軒並に戸を閉じて誰一人死体を処理するものはなかったが、町長代理新井助役は、町民の過失に問はるるを除かんため単身死体を岸村草原大原墓地に運び、神原竹松に云い付けて翌朝までにことごとく焼却した。
この際神原が死体の懐中から多額の金品を窃取した。
又同町寄居町でも六日夜、行商人が危険を感じて寄居分署に保護を願ひ出で留置室にこもってゐたのを、用土村消防等と青年多数が不法にも同署を襲ひ惨殺した。
又妻沼町にても、長野県青年某が自警団に虐殺されたので妻沼署員馳せ付け犯人を検挙した処、自警団は是を取返さんと警官隊と衝突し争闘を惹起したが、当日あたかも警戒に出張した金沢師団第七連隊の将卒が馳せ付け、わずかにことなきを得た。
これに対し先月二十四日以来判検事出張本庄熊谷妻沼方面から百余名検挙せられ取調べ中であったが、本月九日一段落を告げ二十二日頃公判に附せらるるはず。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。
解説◎熊谷事件、寄居事件を伝えた記事だが、この時点ではまだ朝鮮人虐殺の報道が解禁されておらず、被害者はみな「労働者」とだけ書かれている。
事件の日付は8日とあるが、これは誤りで、実際は熊谷が4日、寄居が6日未明。また、神原竹松さんが遺体から金品を奪ったという記述にも根拠がない。
単身、遺体を集めた新井助役は後に熊谷市の市長となり、朝鮮人の慰霊碑を建立した。
現在、熊谷市は、市の主催で彼らの霊をなぐさめる慰霊式を毎年9月1日に行っている。
◎熊谷事件について
ブログ『9月、東京の路上で』「地方へと拡大する虐殺」 →◉
熊谷で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式 悲惨な歴史を教訓に → yahoo! ニュース
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ブログ『9月、東京の路上で』「地方へと拡大する虐殺」 →◉
◎寄居事件について
ブログ『9月、東京の路上で』「なんじの隣人を」 →◉熊谷で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式 悲惨な歴史を教訓に → yahoo! ニュース