2014年11月5日水曜日

浅草の虐殺

あれはね、九月一日ですよね。震災にあったときは。一日は上野にいて、二日の晩なんですよ。結局もう二日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。
その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるからそのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよねだから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。
その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人も悪い朝鮮人も全部かまわずにね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池の中でもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて、死骸はね、その場にあるかと思ったらないで、そのままもってったんですね。どっかへ。震災で死んだ人と一緒に入れちゃったんじゃないんですか。


(略)


殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたになって連れていかれた。
三人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、五、六人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだー、って。そしたらひょうたん池から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、三十二、三の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。
夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。でもそのときには毒入れたって頭があるから、憎らしいが半分以上なんでしょう。みんなが飲めないんだから、水、水っていったって。そいでもう火をつけたのがみんな朝鮮の人だとか、やあ何だとかって。


(略)

ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。いやですねえ、そんときその場で殺さなくたってさ、収容するとこ連れてってよく調べてからね、人の前でやらないでね。まあ日本人もあのときは気が立っちゃったんでしょうけどねえ。

(略)


あんときはほんとにいやでしたよ、あたしも。十六ですもの。十六で男の人の殺される血を見るって、とってもいやですね。鼻血はたらすね、叫び声もひーって。わあーっていうんじゃない、ひいってね、すごいの。
あたしそれでしばらく御飯食べられなくて。震災の時何も食べるものがないどころじゃないの。食べられないの、気持ちわるくて、御飯が。あの声だからね、ひょうたん池がなくなったんであたしかえってよかったと思いますよ。今頃あすこにひょうたん池があるとあれを思い出しちゃうからねえ。
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで関東大震災の聞き書き」『新日本文学』200010月号)
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
「ひょうたん池」があったのは浅草六区の東、現在の花やしき前からJRA場外馬券売り場にかけてのあたりだったようだ。参考記事→「瓢箪池(ひょうたんいけ) 誕生と 消滅と



作家の高良留美子[1932 − ]が知人の香取喜与子さんから聞き取ったもの。香取さんは震災当時、上野と浅草の間にあった鉄材店を営む実家に住んでいたが、震災直後は浅草ひょうたん池の近くに避難していた。聞き取りそのものは1970年ごろに行われたようだ。高良は聞き書きの解説でこう書いている。
「ここに発表する機会を得て、ようやく数年前になくなった香取さんにたいして、また何よりもひょうたん池のほとりで非業の死を遂げた方たちにたいして、いくらかの責任を果たすことができたという思いがする。/今この聞き書きを読み直してみると、事態の残酷さ、理不尽さに絶句する思いがする。非常の場合にこそ、人間の普段からの心がけや人格が表れるとすれば、私たちはほぼ八十年後の現在、当時のような心性を克服することができているだろうか。そのことを考えるためにも、過去を何度も想起し、知らなかったことを掘り起こして記憶にとどめることが大切だと思う」