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2015年12月22日火曜日

海岸に打ち上げられた虐殺犠牲者の骨

虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着 

やまと新聞1924210日付夕刊



やまと新聞1924210日付夕刊(国会図書館所蔵)
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虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着

昨日の暴風に打揚げられて/当局面倒がつて責任のなすりあひ

横浜子安方面では九月一日の大震災当時、気荒い漁夫連が多く居住して居たとて数百名の朝鮮人を殺害しその大部分は海中に放棄してしまつたが、八日の暴風のため波浪高く、腐 爛した肉をつけた白骨数多、同海岸へ打ち揚げ、しかも神奈川署では完全な骨組をしてないからと市役所へ廻すのを面倒がり、どこへでも埋めてしまへと取り合わぬので、同海岸はバラバラとなった人骨累々として鬼気人に迫るの物凄さである(横浜電話)
注)読みやすさを考慮して句点を追加しています。


解説◎
震災から5ヶ月後の記事。この記事から読み取れる恐ろしい意味は2つ。一つは、日本人なのか朝鮮人なのか、骨を見ただけで分かるはずがないのに、誰もが自然に「あのとき殺された朝鮮人の骨だ」と思い至るほど、震災時の虐殺がすさまじかったことが透けてみえるということ。次に、にもかかわらず、というより、だからこそ、警察も含め、誰もが見て見ぬふりをして遺骨にきちんと向き合おうとせず、むしろ逃げ回っているということ。

実際、残された多くの証言からは、横浜の虐殺はひどいものだったことが伺える。震災翌月の新聞にも「91日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態/市内だけで判明した鮮人死体は44名でこのほか土中、河、海に投げ捨てたものを入れると140150名を下らず、間違へられて殺された日本人さへ30余名あるといふ」(読売新聞19231021日付)とある。朝鮮総督府が秘密裏に行った調査では、殺された朝鮮人の「見込み数」は180人とされている。恐らくはもっと多いだろう。だがこのうち、殺人事件として起訴されたのは1件だけだ。

海岸に放置された犠牲者の遺骨は、その後、どうなったのだろうか。

2014年11月25日火曜日

目黒の町議等が通行人を銃撃 │ 国民新聞1923年9月30日


国民新聞1923年9月30日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】


目黒の町議等が通行人を銃撃
自警団またも暴行

府下荏原郡目黒町上目黒の自警団員同所五四六電気機械並びに米穀商で町会議員吉永竹蔵(五〇)同中渋谷五七三建具商太田太平(四三)は、去る二日午後八時頃、上目黒大坂上西郷山附近で震災に遭って避難すべく通行中の中目黒五六〇羽根田平次郎(三五)に対し、返答が怪いといって吉永は二連発の猟銃で羽田(羽根田?)を撃ち両足に貫通銃傷を負はせた上、さらに太田はマサカリで斬り付け、瀕死の重傷を負はせた。被害者の羽田(羽根田?)は第二衛戌病院で目下療養中だが生命危篤。加害者の吉永および太田は二八日、世田ヶ谷署の手に取り押へられた。

五十八名の労働者を数珠ぎにして虐殺 │ 北陸タイムス1923年10月14日


北陸タイムス1923年10月14日
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】 


五十八名の労働者を数珠(じゅず)繋ぎにして虐殺
流言蜚語に迷って逆上していた/熊谷自警団の大暴虐


【東京電話】
九月八日午後四時震災のため東京府下から避難して来た労働者五十八名が市外板橋に設けられた臨時憲兵分遣所の取調べを受た結果、一時検束の必要を認め、高崎へ護送すべく、五十八名のものはことごとく両手を細引で縛り数珠繋ぎにし、十二名の警官これを護衛し、中仙道を埼玉県熊谷町に向かふた処、附近沿道の自警団多数の野次馬も加はり前後両側を取囲んで熊谷町分署についた。
この時熊谷在郷軍人分会員は、右五十八名の労働者は分会の手で一先づ保護すべく引渡し方を交渉したのであるが、護送の警官が応じないのでそのままに本町通りへ入った。

 それより先熊谷町自警団員は前日来の流言蜚語のため恐怖の念に駆られ、消防組を中心に自警団員に附近村民も加はり、日本刀棍棒竹槍を携へ、町内が警戒するに共に、一方列車が着車するごとに列車内の怪しきものを警戒しつつある際、前記護送されて来た労働者を見るや、多数の自警団員は大挙して喊声をあげつつ本町通りに一行を襲ひ、数珠繋ぎのままの横合から凶器を振って一斉に斬り付け、又殴り倒したが、縛られているため逃げ出すことができず、悲鳴を揚げて助けを乞ふも何の容赦なく、熊谷寺との間三町余りの街路で惨酷にも虐殺してしまひ、これを見ていた警官も手の下しやうなくただ傍観するより外なく、町民もさすがに自警団の暴行に顔をそむけ、血に染って横はる死体を見て同情の涙を注いだ。
さしも獰猛を極めた自警団の引き揚げたのは午後十時であったが、軒並に戸を閉じて誰一人死体を処理するものはなかったが、町長代理新井助役は、町民の過失に問はるるを除かんため単身死体を岸村草原大原墓地に運び、神原竹松に云い付けて翌朝までにことごとく焼却した。
この際神原が死体の懐中から多額の金品を窃取した。


又同町寄居町でも六日夜、行商人が危険を感じて寄居分署に保護を願ひ出で留置室にこもってゐたのを、用土村消防等と青年多数が不法にも同署を襲ひ惨殺した。
又妻沼町にても、長野県青年某が自警団に虐殺されたので妻沼署員馳せ付け犯人を検挙した処、自警団は是を取返さんと警官隊と衝突し争闘を惹起したが、当日あたかも警戒に出張した金沢師団第七連隊の将卒が馳せ付け、わずかにことなきを得た。
これに対し先月二十四日以来判検事出張本庄熊谷妻沼方面から百余名検挙せられ取調べ中であったが、本月九日一段落を告げ二十二日頃公判に附せらるるはず。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

解説◎熊谷事件、寄居事件を伝えた記事だが、この時点ではまだ朝鮮人虐殺の報道が解禁されておらず、被害者はみな「労働者」とだけ書かれている。
事件の日付は8日とあるが、これは誤りで、実際は熊谷が4日、寄居が6日未明。また、神原竹松さんが遺体から金品を奪ったという記述にも根拠がない。
単身、遺体を集めた新井助役は後に熊谷市の市長となり、朝鮮人の慰霊碑を建立した。
現在、熊谷市は、市の主催で彼らの霊をなぐさめる慰霊式を毎年9月1日に行っている。


◎熊谷事件について

 ブログ『9月、東京の路上で』「地方へと拡大する虐殺」 →


◎寄居事件について

ブログ『9月、東京の路上で』「なんじの隣人を」  →

 熊谷で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式 悲惨な歴史を教訓に → yahoo! ニュース

護送中の鮮人を奪って虐殺 │ 河北新報1923年10月22日



河北新報1923年10月22日(21日夕刊) 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

護送中の鮮人を奪って虐殺
千葉県東葛飾郡の自警団青年員


千葉県東葛飾郡でも不憫(ふびん)の流言に鮮人が不安に陥り、同郡八栄村北総鉄道工事場の鮮人工夫が危険に頻したので、同会社から習志野騎兵連隊に保護を願い出て十三名の兵士が二十七名の工夫を護衛して五日午後船橋警察署に向う途中、避病院前に差しかかるや、同町消防組青年団十六七名が凶器を携え船橋署に後送する鮮人の引渡し方を迫り、兵士の姿没するや直にこれを虐殺して同町夏見仮埋葬場に埋めた(東京電話)


解説◎
この事件については、当ブログ「記憶を刻む」において、現場にかけつけた巡査部長(戦後は自民党千葉県議)の渡辺良雄さんの証言を収めている→渡辺証言
渡辺さんの証言では現場で確認した死者数は53人(うち女性3人)。司法省の報告では、この虐殺で立件された死者数は38人となっている。

暴徒と誤り九家族射殺 │ 北陸タイムス 1923年10月13日夕刊


北陸タイムス 1923年10月13日夕刊
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】


暴徒と誤り九家族射殺
二人だけ辛ふじて助かる

【呉電話】呉市上古江谷瀬嘉吉(六〇)の長男政一および政一の妻みよの、長男信夫、次男秀松は、東京で土方稼ぎ中震災に遭ひ、同僚の八家族と共に九月五日、千葉県匝瑳郡野田村に避難したところ、同所を警衛する青年団および消防隊に異様なる服装のため暴徒の一団と誤られ、政一一家は長男信夫を残し、仲間の八家族もただ一名を残したのみで次から次へと射殺され、最後にこの二人も殺される間一髪のところを巡査に発見救助された。そして信夫の本籍が呉市と判明したので、今回祖父嘉吉のもとへ送還して来たが、嘉吉も政一の仕送りで生活する身でどうすることも出来ず、とりあえず呉同済義会で救済することとなった。

2014年11月18日火曜日

不逞鮮人の暴挙は風説乎│北海タイムス1923年9月10日

北海タイムス1923年9月10日

【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】



不逞鮮人の暴挙は風説乎(か)
左様な事実は絶対にないと南谷検事正談

【福島経由青森九日発電】

南谷東京地裁検事正談)今回の東京大地震に対し、不逞鮮人が帝都に跋扈(ばっこ)しつゝありとの風説に対し、当局に於いても相当警戒調査し居るが、右は流言蜚語が行はれ居るのみである。
七日夕刻まで左様なる事実は絶対にない。もちろん鮮人中にも不良の徒もあるから警視庁に検束し厳重取調を行つて居るが、或は常習の窃盗乃至其他の犯罪人を出すとも、流言の様な犯罪は絶対に無いと信ずる。


解説 ◎
南谷検事正は東京地裁管区で自警団事件の捜査に当っていた人物。治安当局が流言が虚説であることを認識するに至り、6日以降、流言と自警団をはっきりと抑制していく方向に転換したことを反映したコメント。

鮮人に関する流言は無根│国民新聞1923年9月7日



国民新聞1923年9月7日 (号外)
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

鮮人に関する流言は無根

今回の大シンに当たりて往々無根の流言を放ち人身を惑はす者がある。其の甚だしき例を挙げると、四日舟橋に不逞鮮人三百名が上陸したと云ひ五日大崎町焼失したりと流言したる者があるが、共に無根の事実で、今後流言を云ひ振す者は治安維持の為めに厳重処分せらると(戒厳司令部当局談)


解説◎
震災発生から6日後の9月6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対する無法の待遇を慎め」などとする「注意」を発表。流言を罰する旨を記したビラを配布する。翌7日、出版や通信も含め流言飛語を罰する「治安維持令」が発せられた。なお、「鮮人」とは朝鮮人に対する差別的な表現であるが、歴史的記録としてそのまま掲載した。

東京ろうあ学校の生徒は半数以上生死が判らぬ│読売新聞1923年10月5日



読売新聞1923年10月5日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

オシやツンボが沢山/自警団に殺傷/
東京ろうあ学校の生徒は半数以上生死が判らぬ

自警団の暴行検挙は引続き行はれているが、大震災の当初、夜景団員は殺気立つて居たせいか誰何されて返事の出来ない多数のろうあ者が随分傷害され、半死半生の憂き目にあつた。
現に牛込矢来町一〇二の家井義雄(二二五五)は、大正九年三月小石川指ヶ谷の東京ろうあ学校の卒業生であるが、先月六日浅草からの帰途夜警団に殺されたと実父から同校に申し出てきた。
此の外、同校在学の生徒で生死不明の者が全生徒数の約半数に及んで居ると云ふが、其他一般の唖者の中にも半殺しにされた者があるのは、甚だ気の毒なことである。


解説◎
自警団や軍によって多くの朝鮮人が殺されたが、このとき、朝鮮人に間違えられて多くの日本人や中国人も殺されている。殺された日本人の中には、方言を話す東北や沖縄の人々、そして上の記事にあるように、聴覚障害者などもいた。なお、「おし」「つんぼ」は障害者に対する差別的な表現だが、歴史的な記録としてそのまま掲載した。

2014年11月17日月曜日

放火した自警団員│読売新聞1923年11月10日


読売新聞1923年11月10日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

放火した自警団員
功績を認めた貰ふつもりで

自警団員として功績を認めてもらひたいため放火した男がある。
本郷コマ姥目蓬莱町一六赤城一郎(一八)で、同人は去る六日午前三時半頃夜警中同町五菓子商小室寅造方の軒下に空俵(からだわら)をたてかけて放火し、燃え上がると火事だ火事だと大声をあげて消し止め、自分のてがらにするつもりのところ発火原因の不審から悪事が露見したもので、九日朝、検事局へ送られた。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

解説◎
自警団をはじめ、日本人が放火を行って逮捕された記事は、このほかにも散見される。
警視庁『大正大震火災誌』によれば、警視庁管内だけで9月中に25件の放火があった。前年同期の5倍であるという。この25件の火災について同書は、「災後の人心の動揺と警戒の不備とに乗じ、平素の怨恨を晴さんとするものを以て其の多数を占め、其他或は悪戯」が多かったと書いており、政治的、組織的な犯行は認めていない。

2014年10月29日水曜日

警視庁幹部「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人もない」

朝鮮人の噂は何所から出たか今も消えぬので弱る/
大元は横浜らしい
警視庁木下刑事部長は勿論実際捜査の任に当たつた小泉捜査課長も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と断言してゐるが、それにしても鮮人に関する極端に奇怪なる流言は何処から来たのか、ずいぶん苦心して調べてゐるらしいが未だにはつきりした出所がわからない。
木下部長は「何んでも流言の元は横浜なのであるがそれ以上にはつきりしない。
従つてどんな種類の人間が流言の口火を切つたのかもわからないが流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである。
未だにこの流言は無くならず、色々な風説に形ちを変へては出て来るので実は困つてゐるのだ。
本庁ではいま先ず第一の力を暴利取締りに注いでゐるが火事場の泥棒及び戸締のうすいのを幸ひに忍び込む奴、或(あるい)は婦女誘拐(これは取締厳重なのでまだ無いやうだが)乃至は脅喝(この騒ぎを幸ひに実業家乃至富豪などを脅喝して金品を強請するもの)などの警戒と共に流言は殊に厳重に捜索取締をしてゐる」と云ふ。(読売新聞1923年9月15日)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2』緑蔭書房、2004年)