虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着
やまと新聞1924年2月10日付夕刊
やまと新聞1924年2月10日付夕刊(国会図書館所蔵)
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虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着
昨日の暴風に打揚げられて/当局面倒がつて責任のなすりあひ
横浜子安方面では九月一日の大震災当時、気荒い漁夫連が多く居住して居たとて数百名の朝鮮人を殺害しその大部分は海中に放棄してしまつたが、八日の暴風のため波浪高く、腐 爛した肉をつけた白骨数多、同海岸へ打ち揚げ、しかも神奈川署では完全な骨組をしてないからと市役所へ廻すのを面倒がり、どこへでも埋めてしまへと取り合わぬので、同海岸はバラバラとなった人骨累々として鬼気人に迫るの物凄さである(横浜電話)
注)読みやすさを考慮して句点を追加しています。
解説◎
震災から5ヶ月後の記事。この記事から読み取れる恐ろしい意味は2つ。一つは、日本人なのか朝鮮人なのか、骨を見ただけで分かるはずがないのに、誰もが自然に「あのとき殺された朝鮮人の骨だ」と思い至るほど、震災時の虐殺がすさまじかったことが透けてみえるということ。次に、にもかかわらず、というより、だからこそ、警察も含め、誰もが見て見ぬふりをして遺骨にきちんと向き合おうとせず、むしろ逃げ回っているということ。
実際、残された多くの証言からは、横浜の虐殺はひどいものだったことが伺える。震災翌月の新聞にも「9月1日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態/市内だけで判明した鮮人死体は44名でこのほか土中、河、海に投げ捨てたものを入れると140、150名を下らず、間違へられて殺された日本人さへ30余名あるといふ」(読売新聞1923年10月21日付)とある。朝鮮総督府が秘密裏に行った調査では、殺された朝鮮人の「見込み数」は180人とされている。恐らくはもっと多いだろう。だがこのうち、殺人事件として起訴されたのは1件だけだ。
海岸に放置された犠牲者の遺骨は、その後、どうなったのだろうか。