竹内重雄(大井町住民)
「その翌日(3日)は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が二千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき。戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は十三歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の(不自由な?)善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった」
(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年)