2020年5月22日金曜日

朝鮮人犠牲者追悼碑の三つの意義

加藤直樹(ノンフィクション作家)


朝鮮人犠牲者追悼碑の存在には、三つの大きな意義があります。

一つ目は、それが虐殺の記憶を継承し、死者の前で歴史の教訓を確認する場であるということです。東京は、あの虐殺事件の中心でした。朝鮮総督府警務局の調査でも約300人が東京府内で殺されたとしています。おそらくはもっと多いことでしょう。弁護士の山崎今朝弥は虐殺事件後、「朝鮮人が殺された場所ごとに塚(追悼碑)を作らなくては、日本人と朝鮮人の和解はあり得ない」と訴えましたが、横網町公園の碑は、それに応える一つのかたちになっています。

二つ目は、それが他ならぬ「横網町公園」に置かれていることの意義です。横網町公園は、関東大震災の死者を追悼する場として1930年に開園しました。現在は45年の東京大空襲の死者を悼む場ともなっています。朝鮮人犠牲者追悼碑が、東京都が管理するこの公園の中に置かれていることは、虐殺事件の記憶が東京の「負の原点」であることを確認し、共有する場になっていると思うのです。都知事の毎年の追悼文も、その一部を成しているはずです。

東京には、多くの在日韓国・朝鮮人が暮らしています。その中には、あのとき、殺されかかった人の子孫もいます。私はそういう人に何人も会いました。さらに東京には近年、様々な民族に属する人々が暮らすようになりました。追悼碑が東京都の記憶に関わる公園に置かれているということは、多民族都市である東京で、日本人ではないという理由で誰かが暴力の犠牲となるようなことを二度と許さないという誓いの意味をもっていると思うのです。

三つ目は、追悼碑が「虐殺事件を忘れずに、その反省と教訓を後世に伝えていこう」と考えた先人たちが残した遺産だということです。

1973年に「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が朝鮮人犠牲者追悼碑の建立を呼びかけたとき、あれほど虐殺がひどかった東京に、犠牲者を悼む碑が一つもありませんでした(埼玉や千葉にはすでにありました)。震災50年という節目の年に、東京に追悼碑を造ろうという呼びかけは大きく広がり、都議会各派の幹事長が実行委に参加し、美濃部亮吉・東京都知事を筆頭に自民党から共産党に至る様々な政治的立場の600人の個人と250の団体が協力しました。

これほどの広がりがあったのは、あの事件から50年しか経っていない当時、関東大震災を記憶している人がまだ多かったからでしょう。虐殺や迫害を実際に見聞きした人も少なくなかったはずです。追悼式典のチラシに毎年書かれている「この悲劇、繰り返しはせぬ」という言葉に現れている思いは、1973年の段階では非常に生々しいものだったと思います。それを石造りの「碑」という形で表現したのは、当然、その思いを子々孫々に伝えようと考えたからに違いありません。追悼碑には、実際に虐殺の時代の空気に触れた人たちの、後世の人々への思いが託されているのです。 追悼碑の建立が一貫して日本人の手によって行われたことも重要です。

以上の三つが、横網町公園にある追悼碑の意義として私が考えているものです。そして、その意義は、9月1日に追悼碑の前で行われる追悼式典によって毎年、新たにされているのだと思います。

「そよ風」や古賀都議らが追悼式典と追悼碑を憎むのも、上の三つの意義のゆえだと思います。彼らは虐殺の記憶を忘却させたい、東京都の行政から「民族差別を許さない」という姿勢を一掃したい(なぜなら彼らの不健全なナショナリズムは民族差別抜きでは成り立たないから)、そのために、虐殺の記憶を守る営みを消し去りたいという欲望にかられているのです。

小池都知事の追悼文送付拒否事件を機に「そんなことは許さない」という思いで多くの人が声を上げ、追悼式典に参集しました。逆説的なようですが、それは、1973年に碑を建立した人々の思いが、後世の人々に受け継がれつつある光景なのではないかと感じています。私自身もまた、そうした「後世の人」の一人でありたいと願っています。

(一部抜粋。日朝協会機関誌「日本と朝鮮」第912号、19年8月1日付より)



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