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2016年1月12日火曜日

警視庁による中国人虐殺事件の報告

警視庁広瀬久忠外事課長直話(192396日)

目下東京地方にある支那人は約4500名にしてうち2000名は労働者なるところ、93日大島町7丁目において鮮人放火嫌疑に関連して支那人および朝鮮人300名ないし4003回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊において青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊および自警団(青年団および在郷軍人団等)において約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁においては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将および戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方および同地残余の200名ないし300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(註:国府台)兵営において集団的保護をなす手はずとなりたり。
本事件発生の動機原因等については目下の所不明なるも支那人および朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なくただ鮮人については爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
なお全管内の支鮮人の保護は軍隊警察においてこれに当たり、管下各警察に対してはそれぞれ通達済みなり。 
        (アジア歴史資料センターHPレファレンスコードB04013322800)



注)原文はカタカナだが、ひらがなに直した。また、一部の漢字を開き、句読点を入れて読みやすくしている。



◎解説
中国人と朝鮮人が殺されたとあるが、大島で殺されたのは主に中国人であった。関東大震災から3日後の192393日、現在の江東区大島において、中国人労働者300人以上が、軍の部隊と群衆によって虐殺されたのである。この事件の全体像については、ブログ『9月、東京の路上で』「中国人はなぜ殺されたのか」で紹介している。

この文書は、震災後に政府に設置された臨時震災救護事務局の会議の場において、警視庁の広瀬外事課長が口頭で報告した内容を筆記したもの。国立公文書館が運営する「アジア歴史資料センター」のHPで実物の画像を見ることができる(リンク)。


ところで、この文書には「朝鮮人が爆弾を所持していた事例がある」という趣旨の文言が出てくるが、実際には、爆弾を所持した朝鮮人がいたことを示す司法記録も行政文書も存在しない。残っているのは、爆弾をもっているとして住民が連れてきた朝鮮人を調べて見ると、持っていたのは牛肉の缶詰であったという類の記録ばかりであり、実物の爆弾はついに発見されなかった。

96日といえばまだ混乱のさなかであり、この「爆弾」話も、当局自身の混乱を反映した誤報であろう。念のため書いておけば、関東大震災時に、朝鮮人、あるいは朝鮮人と誤認して日本人や中国人を殺傷したことで起訴された日本人は566人に上る一方で、殺人、放火、強姦などの罪で起訴された朝鮮人は一人もいない。

2016年1月7日木曜日

「イモを食わないのは、朝鮮人だ」


「日本国民の敵は、不逞鮮人だ!」とどなり歩く声があちこちで恐ろしげに響いていた。本所、深川あたりから罹災してくる人たちの声だったようです。この罹災民たちは、知らない人からもらった水や食物は、ぜったい口にしないといううわさでした。
(9月)4日になって私たちは田端から母の故郷の福島に向かったのですが、その車中で、すごい光景を見てしまいました。
途中の駅で罹災者にイモの差し入れがあったのですが、車中で一人の男がイモをもらったままにしていたのです。すると誰かが「イモを食わないのは、朝鮮人だ」と叫び始めた。屈強の男たちが4、5人、この 朝鮮人” を追い駆け回し、隣の客車まで逃げた男を連れ戻してきておいて、頭といわず、からだといわず、ところかまわず、なぐる、けるの乱暴を加えたので、男は口から血を吐いてとうとう死んでしまいました。
車中のかなりの人がそれを見て「バンザイ」などといって大喜びしているのです。私はなんと無残なことをするのかと腹立たしく思いましたが、まわりの人がこわくて黙っているしかありません。
そのほか、白河の少し手前でも、同じような朝鮮人を見い出し、列車の中でなぐり殺してしまいました。
大地震で日本国中の日本人たちが、狂っていたとしか思われません。私たちは集団になると、とんでもないことをしでかす民族かもしれないと思うと、いまでもゾッとします。(談)
(月刊「潮」19719月号)

解説◎
北沢初江さん(主婦)の証言。「日本人の朝鮮人に対する虐待と差別/日本人100人の証言」という特集で掲載されたもの。関東大震災時の虐殺について、多くの証言が取り上げられている。列車の車中で、イモを食わないという理由で殺された人がいたことは、当時の新聞にも出てくる。

2015年12月15日火曜日

早川徳次(シャープ創業者)

当時、亀戸のほうに第三工場にするつもりで五軒の長屋を買ってあり、四軒は空屋にしてあった。そこが無事なのがわかって、私たちは移った。日が経つにつれて離散していた従業員たちが続々やってきて、いちじは七十人ほどの大家族になってしまった。朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、
「朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」
という。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。しかし、かくまっているとただではおかないという風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。
(中略)
町で実際に朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった。いきなり後ろから頭を割られ、それでも歩いていて、ついに倒れると背中やお腹を金属の棒で突いているのである。こっちに力がないから止めることができず、もし止めようとすればこちらが殺られてしまっていただろう。
(早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』197410月号)


解説◎
家電メーカー「シャープ」の創業者である早川徳次[1893‐1980]の証言である。早川は当時30歳。いわゆるシャープペンシルを開発し、墨田区に工場をもって事業を展開していたが、関東大震災で全焼した。震災で二人の子どもを失い、2年後には妻も病で亡くなった。早川は震災後、大阪に移り、新事業に乗り出して家電メーカーとしてのシャープを発展させていった。ちなみに早川がかくまった「李さん」はその後、朝鮮に帰って弁護士になったそうである。「昭和十五年、私の満州の店で、劇的な再会をしたことがある」と早川は書いている。

2015年12月11日金曜日

稲垣浩(映画監督)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)

(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名50人の当時の経験を収録している。そのなかで朝鮮人迫害の証言を映画監督の稲垣浩がしている。

2014年11月5日水曜日

浅草の虐殺

あれはね、九月一日ですよね。震災にあったときは。一日は上野にいて、二日の晩なんですよ。結局もう二日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。
その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるからそのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよねだから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。
その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人も悪い朝鮮人も全部かまわずにね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池の中でもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて、死骸はね、その場にあるかと思ったらないで、そのままもってったんですね。どっかへ。震災で死んだ人と一緒に入れちゃったんじゃないんですか。


(略)


殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたになって連れていかれた。
三人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、五、六人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだー、って。そしたらひょうたん池から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、三十二、三の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。
夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。でもそのときには毒入れたって頭があるから、憎らしいが半分以上なんでしょう。みんなが飲めないんだから、水、水っていったって。そいでもう火をつけたのがみんな朝鮮の人だとか、やあ何だとかって。


(略)

ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。いやですねえ、そんときその場で殺さなくたってさ、収容するとこ連れてってよく調べてからね、人の前でやらないでね。まあ日本人もあのときは気が立っちゃったんでしょうけどねえ。

(略)


あんときはほんとにいやでしたよ、あたしも。十六ですもの。十六で男の人の殺される血を見るって、とってもいやですね。鼻血はたらすね、叫び声もひーって。わあーっていうんじゃない、ひいってね、すごいの。
あたしそれでしばらく御飯食べられなくて。震災の時何も食べるものがないどころじゃないの。食べられないの、気持ちわるくて、御飯が。あの声だからね、ひょうたん池がなくなったんであたしかえってよかったと思いますよ。今頃あすこにひょうたん池があるとあれを思い出しちゃうからねえ。
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで関東大震災の聞き書き」『新日本文学』200010月号)
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
「ひょうたん池」があったのは浅草六区の東、現在の花やしき前からJRA場外馬券売り場にかけてのあたりだったようだ。参考記事→「瓢箪池(ひょうたんいけ) 誕生と 消滅と



作家の高良留美子[1932 − ]が知人の香取喜与子さんから聞き取ったもの。香取さんは震災当時、上野と浅草の間にあった鉄材店を営む実家に住んでいたが、震災直後は浅草ひょうたん池の近くに避難していた。聞き取りそのものは1970年ごろに行われたようだ。高良は聞き書きの解説でこう書いている。
「ここに発表する機会を得て、ようやく数年前になくなった香取さんにたいして、また何よりもひょうたん池のほとりで非業の死を遂げた方たちにたいして、いくらかの責任を果たすことができたという思いがする。/今この聞き書きを読み直してみると、事態の残酷さ、理不尽さに絶句する思いがする。非常の場合にこそ、人間の普段からの心がけや人格が表れるとすれば、私たちはほぼ八十年後の現在、当時のような心性を克服することができているだろうか。そのことを考えるためにも、過去を何度も想起し、知らなかったことを掘り起こして記憶にとどめることが大切だと思う」

2014年10月21日火曜日

ポール・クローデル(フランス駐日大使、詩人)


災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。
いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。
こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。
私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。
宇都宮では16人が殺されました。
日本政府はこの暴力をやめさせました。
しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。
(ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の1920年代』草思社)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎

ポール・クローデル[1868 -1955年]は外交官であると同時に詩人、戯曲家。彫刻家のカミーユ・クローデルの弟。関東大震災の際は自ら被災した。上の引用は、震災直後の書簡の内容。


2014年10月17日金曜日

現在の両国・国技館附近での虐殺



(九月)五日の日であった。
「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時か死して行く。
死せし者は隅田川にと投げ込む。
その物凄さ如何ばかり。我同胞が尼港にて残虐に遭いしもかくやと思いたり。
ああ無慙なるかな。
中には良き人もありしに、これも天災の為にて致方なし。
(成瀬勝『大震災の思い出』非売品、2000年)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
震災当時20歳で、深川区相生町の左官材料問屋で奉公していた成瀬勝さん(1932年年没)が残した手記を、親族の方が2000年に出版したもの。手記そのものは、震災の翌年に書かれている。手書きの原文を新かなで活字化している。
惨劇があった「御蔵橋」とは、当時、隅田川から引かれた入堀の上にかかっていた橋で、今で言うと、両国の国技館の正面にあたる。御蔵橋の位置を示す立て札が今も残っている。

御蔵橋での虐殺については、ほかにもいくつかの証言があるほか、日本人誤殺では立件された事件もある。

「尼港にて~」とあるのは、震災の3年前にあった「尼港事件(1920年2月)」を指す。

「朝鮮人」として憲兵に刺殺された車掌


あの晩、私は入谷の市電車庫にある電車の中で泊まったんですよ。
朝鮮人騒ぎで、若い男が警備にあたっていました。
そこに、電車の運転席の下についている網の中で寝ていた人がいましてね。
だれかが、その人をみて『朝鮮人だ』って叫んだんですよ。
その人、びっくりして逃げ出したんです。そしたら追っかけた憲兵が頭を一突きにしてしまいましたよ。
その人、最後の力をふりしぼって、ポケットの中から木の札を出したんです。
それが車掌の証明書だったんですね。日本人でしたよ
(松野富松、当時11歳で浅草在住)


朝鮮人が井戸に毒を入れたというので水も飲めなくなり、自警団がつくられました。
六郷の土手に検問所ができて、朝鮮人は土手の桜に縛りつけられていたそうです。
川崎の私の家の前にも検問所ができて、棒でたたかれて死にそうになっている人を見ましたよ。
なんでも、その人は身なりが悪いという理由だったそうです
(飯山鈴子、当時7歳で川崎在住)



(略)それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。
どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。
ほんとうに戦争みたいだった
(萩原つう、当時15歳で恵比寿在住)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)


(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名の50人に当時の経験を語ってもらうもの。そのなかで朝鮮人迫害に関連する証言のうち印象的なものを、上にピックアップした。最後に挙げた稲垣浩以外は無名の人々だ。





2014年10月15日水曜日

船橋警察署巡査部長の手記/船橋駅前での虐殺

大正十二年九月四日午後一時頃、元吉署長から、「北総鉄道工事に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引継いで、習志野の捕虜収容所に連れて行くように。」と命ぜられた。
私とほか数人の警察官が出掛けて行き、天沼の附近まで行くと、騎兵が前後について手を縛られている朝鮮人約五〇人位が列をなしてやって来た。
私達はその騎兵に手を拡げて、「この人達を我々に渡してくれ!」とお願いした。すると騎兵隊は、「船橋の自警団に引き渡せと命令を受けて来たので、駄目だ。と聞き入れてくれなかった。
「若し船橋に行くと皆殺しにされるから、引き渡してくれ」と押し問答しているうちに、丁度その時、船橋駅附近で列車を停めて検索していた自警団や、避難民の集団に発見された。
警鐘を乱打して、約五百人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。
私は、ほかの人達に保護を頼んで、群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った。
署に着いて元吉署長にその状況を報告すると、署長は、「警察の力が足りないので致し方ない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ。」と命ぜられた。
私が直ぐ引き返していくと、途中で、「万歳!万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。
現場に行ってみると、地獄のありさまだった。
保護に当っていた警察官の話では、「本当に、手の付けようがなかった。」とのことであった。
調べて見ると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた。人間が殺される時は一ヵ所に寄り添うものであると思い、涙が出てしかたがなかった。
後で判ったことであるが、船橋の消防団員が、朝鮮人の子ども二人を抱えて助け出し、逃げて警察に連れて来たとのことだった。少しは人の情というものが残っていたと思った。
五三人の屍体は、附近の火葬場の側に一緒に埋めたが、その後、朝鮮の相愛会の人達が来て、調査するとのことで屍体を焼却して散乱してしまった。
      千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』青木書店
      に収録された渡辺良雄さんの手記「関東大震災の追憶」から。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
震災当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんによる手記。渡辺さんはその後、千葉警察署長まで務めて退職し、千葉市助役を経て戦後は千葉県議会議員に(4期)。所属は自民党である。手記のこの部分では、船橋駅前での虐殺の状況が記録されている。同時に、朝鮮人団体が来る前に遺体の隠蔽工作をしたという記述が重要だ。「相愛会」は、後に衆議院議員ともなった親日派(対日協力者)の朴春琴(パク・チュングム)らが創設した在日朝鮮人団体。

2014年9月30日火曜日

「殺気立った民衆の犠牲であった」


竹内重雄(大井町住民)
「その翌日(3日)は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が二千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき。戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は十三歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の(不自由な?)善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった」

(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年) 

火に投げ込まれそうになった看護士


(看護士の岩田とみさんの経験。岩田さんは、被災者救援のために市役所で働こうと9月2日夜、看護服のままで板橋の職場から歩き始めた)

そしてやつとのことで燃えて居る上野の松坂屋の前まで来ると、そこらに居た人々が『そら朝鮮の女が逃げて来た』と叫びながらいきなり私を捕へて火の中へ投げ込まうとしました。私は自分が灰になるのはいとひませんが、その前に市の為に少しでも尽したいと思つていたところですから『朝鮮人ではありません看護婦ですよ』と叫びながら無我夢中で抜出しました。そしてこれは危ないと思ひましたので、保護してもらひたいために本郷警察署へ駆け出しました。すると警察の少し前の所でまた自警団員に捕まつてしまひました。『こやつもやったのだらう』と罵りながら散々こづきまはして私を警察署へつれてゆきました。
目を充血させた巡査が手に手に木剣を持ちながらどかどかと私を囲みました。誰かが私を殴りつけました。『まつて下さい皆さんに見せたいものがあります』私は一生懸命になつて叫びました。すると署長が『待て』と叫んで私を見つめました。私はかくしてから産婆と看護婦の免許状を出しました。賞状も出して見せました。すると皆手を返した様に優しくなりました。
(高崎雅雄『大正震災哀話』光明社、1923年11月)


解説◎
「大正震災哀話」は、この時期に多く出された震災実録物の一冊。様々なエピソードを集めたもの。

「バット」と言えないと日本刀で殺害


夜になりますとみんなふつうの住まいのところへは寝ないんです。なぜかというと、朝鮮人が暴れて来るというんでね。それでお前は火傷をして大変なんだからって、小松川の土手へ行って蚊帳をはって、その中へ寝かせてくれたんです。
そうすると表でドヤドヤと歩く音がするんですよ。何だと思ったら、朝鮮人を検査しているんですね。歩いている人に『これを読め』ってんで、朝日とかバットとか敷島とかのタバコを出して。それで、日本人でもずいぶんやられたと思うんですけど、バットってことを朝鮮人の人は言えないんですね。ハットとかなっちゃう。そうすると、『コノヤロウ』と言ってダーッと切るんですよ、日本刀ですよ。切り付けてそのまま行っちゃうんです、みんな自警団ですね。私なんか、土手にいてその現場を見ていたんですから。恐ろしいしね、寝ているどころじゃあないですよ。
朝鮮人の話は、おじさんの家に行ったとき。9月4日頃じゃあないのでしょうか。私は包帯巻きだから『お前は何だ』『朝鮮人だろう』なんて言われました。おじさんやなんかがよくかばってくれたんです。ちょうど小松川の土手へ行く手前のところですけど。
(『江戸東京博物館調査報告書10 関東大震災と安政江戸地震』2000年)


解説◎
被服廠で被災した小椻政男さんの証言。聞き取りは1990年。

被服廠の中でも殺された


2日の日に小松川までわたしたちゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りてケガ人も集まりました。その夜に朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹やりを持ったり、寝ていられずそれは大変でした。そのあいだに地震(余震)がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまりいいたくありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。
(『江戸東京博物館調査報告書10 関東大震災と安政江戸地震』2000年)

解説◎
被服廠で被災した宮崎勝次さんの証言。1990年に聞き取り。

後ろ手に針金で結わいて隅田川へ


朝鮮人騒ぎには怖い思いをしました。井戸に毒を入れたとか、襲ってくるとかそんな話が伝わって、みんなで警戒しました。よそ者を見つけては近所の若者が朝鮮人かどうか調べていました。君が代を歌えと言われて、東北から来た人は訛ってうまく歌えず、朝鮮人と間違えられたとも聞きました。
私も見ました。つかまって後手に針金で結わかれて隅田川に投げ込まれたのを。でも、どうかすると足だけでもうまく泳げます。しかし、逃げようとするところを、伝馬船に乗っている若者が鳶口で頭をたたく。血しぶきが立ち、そのうち沈んで行きました。
震災騒ぎが収まってから、日本堤警察署が犯人探しを始めて、朝鮮人を殺した者を留置所に入れました。あわてて近所のおばさんが来て、
『うちの子はみんなを守るためにやったんだから、警察には言わないでおくれ』
と言っていました。オールバックだった髪を丸坊主にした人もいました。変装か謹慎か分かりませんけれど。押入れに1か月も隠れて行方をくらました人もいたと聞きます。
(村松君子『思い出は万華鏡のように』朝日新聞出版サービス、2004年)

解説◎
『思い出は~』は、半生を振り返った本で、自主出版と思われる。村松氏は当時13歳で本所のライオン歯磨の工員だった。

2014年9月5日金曜日

清川虹子【女優】の証言

清川虹子【女優。当時12歳。震災時は上野音楽学校へ避難】

“ 男たちは、手に手に棒切れをつかんで、
その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ
恐怖でふるえながら、
それを見ていました”

朝鮮の人が井戸に毒を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日(9月3日)です。/
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。 だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。
すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。
あとで、すべてはデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。
朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。
小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。 大震災のあとに起きたこうした事件のかずかずは、これに遭遇した人のいろんな本に、それぞれの体験として書かれていますが、それは火や激震そのものよりもずっと恐ろしく、ぞっとする人間のドラマだったと思うのです。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)