2014年10月29日水曜日

神奈川県知事「隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」

神奈川県罹災状況(1923年9月4日、神奈川県知事・安河内麻吉)

   ○鮮人に就いて兎角の風評高し
一日の地震に際し、横浜の刑務所を開き、在監囚支那人鮮人合して約一千名を解放せり。
此事が大いに市民に恐の念を懐(いだ)かしむ。
即ち良民青年団員は自衛上必要として自ら武器を以て起ち、警官を助けて警察保安に任ぜしが、民心激昂の際とて、鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず。

一方鮮人側に在りでは解放の後ち獄衣を普通衣に改めんとして良民を剽剥ぎするもの多く、また何分には施米は邦人を先きに、鮮人に容易に及ばざる関係上、飢渇を覚えては邦人の糧食を無理に強奪するものあり。
これらの乱暴が甲より乙に伝はり、また丙に漸次噂に噂を生じ、はては「鮮人隊伍を組み銃器を携へて襲来し、掠奪凌辱を檀にす」との揚言高く、青年団員の激昂殆ど其の頂に達し、前記の始末に及びたる次第なりと。

かくて鮮人は、良民たると暴徒たるとの差別なく、到底市に止まるを得ず。
身を以て免かれて杉田、金沢、保土ヶ谷など諸方に遁走せしが、これらがまた地方騒擾の原因を作し、現に、杉田、金沢方面の住民は痛く鮮人を恐れて、急を追浜航空隊に報じ救援を求むること切なり。
即ち、航空隊よりは、五人あるいは八人と、小人数の隊伍を各地に派遣し、警戒に任ぜしむ。
一人も現行犯ある鮮人を見出さざりしと言ふ。

兎に角鮮人にして我邦に反感を抱くもの此の天災を機としてあるいは放火し、または掠奪し、井水に毒を投じて毒殺を計り、爆弾を使用して邦人を暗殺し、婦女子を凌辱して獣欲を逞しうするの悪漢固よりこれなきを保せず。
必ず噂の生ずる所其の真原因あるべきも、また良鮮人にして不幸これら暴徒と同一視せられたるもの必らず多かるべく、これらの人にしては実に気の毒に堪へざる次第なり。

鶴見にては、警察官の処置宜しきに叶ひ、早く良鮮人三百人を一団として警察に保護し、禍を未前に防ぎ得たりと。
川崎鶴見程ヶ谷方面鮮人に対する諸種の流言輩語盛に行はれ、人民競々たりしも、事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています



解説◎
横浜に派遣された侍従武官・四竈孝輔(しかま・こうすけ)海軍少将[1876 - 1937年]が、安河内県知事から聴取した内容をまとめたもののうち、朝鮮人関連の項。
「隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」であり、「一人も現行犯ある鮮人を見出」せなかったにもかかわらず、「鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず」という状況であったことを伝えている。


地震発生から4日目で、まだ深刻な混乱が続いていた時期のものなので、事態の全貌が掴めず、〝 横浜刑務所から解放された朝鮮人が追いはぎをしたといった不確かな情報も混じっている。
横浜刑務所の解放は事実だが、囚人にとくに朝鮮人が多かったということはないだろう。
念のため加えて書き添えておけば、「固よりこれなきを保せず」とは、「もちろんないとは言い切れないが」という意味である。
朝鮮人による暗殺などもあったがという意味ではない。


横浜の状況については、当ブログではほかに、横浜市長神奈川県警察幹部神奈川警備隊司令官による記録を収録している。

警視庁幹部「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人もない」

朝鮮人の噂は何所から出たか今も消えぬので弱る/
大元は横浜らしい
警視庁木下刑事部長は勿論実際捜査の任に当たつた小泉捜査課長も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と断言してゐるが、それにしても鮮人に関する極端に奇怪なる流言は何処から来たのか、ずいぶん苦心して調べてゐるらしいが未だにはつきりした出所がわからない。
木下部長は「何んでも流言の元は横浜なのであるがそれ以上にはつきりしない。
従つてどんな種類の人間が流言の口火を切つたのかもわからないが流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである。
未だにこの流言は無くならず、色々な風説に形ちを変へては出て来るので実は困つてゐるのだ。
本庁ではいま先ず第一の力を暴利取締りに注いでゐるが火事場の泥棒及び戸締のうすいのを幸ひに忍び込む奴、或(あるい)は婦女誘拐(これは取締厳重なのでまだ無いやうだが)乃至は脅喝(この騒ぎを幸ひに実業家乃至富豪などを脅喝して金品を強請するもの)などの警戒と共に流言は殊に厳重に捜索取締をしてゐる」と云ふ。(読売新聞1923年9月15日)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2』緑蔭書房、2004年)

2014年10月23日木曜日

1ヵ月も閉じこもった朝鮮人の職人


余震もどうやら治まり、皆がひと安心した頃、突如として朝鮮人さわぎが起こった。朝鮮人が暴動を起こし、日本人を皆殺しに来るとのことである(今思えば流言飛語であった)。
町の若衆たちで自警団がつくられ、竹やりや日本刀をたずさえて武装し、路行く人の警戒に当たっていた。(略)
「朝鮮人が平塚橋までやって来た」とのうわさで、またまた島津公爵の竹林へ逃げ込んでしまった。
地震よりもおそろしく、殺される思いがして、ふるえながら一夜を明かしたが何事もなかった。
家の裏長屋に植木職の森下さんという人が住んでいたが、従業員に真面目な朝鮮の人を使っていた。
しかし、そんなことがあってから約一ヵ月ぐらい一歩も外へ出ず、家の中に閉じこもっていたことを思い出す。
(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

解説◎
品川区大崎(現在)に住んでいた浜谷好男さんの証言。当時、12歳。

海軍少将が記録した「デマが生まれる現場」


(9月3日)御所より帰途市ヶ谷見付にて町内世話人三武氏に遇ふ。
土手三番丁も今夜より不逞の徒警戒のため夜警を出すこととなりたる故、各家より男一人宛出せとの勧告あり。
依って熟考の上自らも夜警の任に当らんと約して帰宅す。
即ち自らは、前夜半の直に当ることとし、町内巡回夜讐を勤む。
警戒配置を定むるも、烏合の衆にて中々にうまく行はれず。
配置の哨兵はほしいままに哨所を離るること多く、平日軍事教育の必要はかかる場合において痛切に感得せられたり。
夜警の人々は何(いず)れも日本刀を佩(お)び、あるいは拳銃を携行、危険限りなし。
警戒の人々何れも甚しく興奮の姿あり。
此の一夜尚ほ二回の滑稽を演じたるあるをここに記さん。

一、午後十一時頃、四谷側濠縁にて盛に非常喇叭(ラッパ)を吹奏し、提灯は右往また左往呼子を吹いて喊声(かんせい)を発し、通る自動車を呼び止めては水面を照射せしむ。
土手三番丁側また多く濠縁に降り、騒々しきこと言語に絶す。
其内銃声を聞くこと数回なり。
而して遂に何等獲物なく、十一時半頃皆失望の姿にて旧位に復す。
これは遂に何事か明かに知る由なかりしも、実は翌朝独り土堤上を巡視せしに、濠内に三羽の鵜あり。
頻りに餌を探しつつ水面に出没するを見たり。
此夜不逞鮮人御濠の内を泳ぎ廻り、水面波紋を見たる鮮人とは恐らく此事なるべし。
疑心暗鬼とは此のことなるべし。

二、午前一時頃哨兵二名大声疾呼して日く、「只今鮮人が電車内に爆弾を抛(ほう)り込み、車内に爆裂して避難者多数を殺戮す」と。
如何にも真しやかなり。
我れは此附近に在りしも嘗て其頃爆発を聞かず。
駈けて現場附近に至れば、すでに一同集団して極めて騒々しく、さりとて電車に逼りそうにも見えず。
ただに遠巻きの有様なりければ、予は横槍を出し、暫時一同の静粛を希望し、電車よりの訴を聞くに、「悪うございました。不注意で提灯を燃焼しました。なにも怪我等はありませんから御安神を願ふ」との滑稽なり。
先づ先づ一同笑ひ話にて解散、配置に就かしむ。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。




解説◎
四竈孝輔(しかま・こうすけ)は[1876 - 1937年]海軍軍人(中将で退官)で、震災当時は宮内庁で侍従武官を務めていた。
『侍従武官日記』は彼が1917年から26年まで記していた日記を刊行したもの。震災当時は少将で、1925年に中将で退官した。

引用した上の箇所には幻におびえて右往左往する人々の姿が描かれている。これは当時の自警団をめぐるひとつの典型的な光景と言ってよい。そして、そこに含まれている可能性に想像を働かせていただきたいと思う。

前者の事例では、四竈が翌朝、お堀を泳ぐ「不逞鮮人」の正体が鵜であったことに気づく。だが、それに気づかないままの人が新聞記者の取材を受ければ、「お堀に潜んで何事かをたくらむ朝鮮人の恐怖」といった記事が出来上がるだろう。あるいは、もし実際に迫害を逃れた朝鮮人がお堀に隠れていたとしたら、「銃声を聞くこと数回なり」とあることを思えば、彼は何も悪事を行っていないのに撃たれて死んだかもしれないということだ。

後者の事例では、提灯を燃やしてしまっただけのことが、電車内に朝鮮人が爆弾を投げ込んで多数の死者が出たという話にあっという間に発展してしまう伝言ゲームの恐ろしさが描かれている。
当時の異常な心理状況を想像させるエピソードだが、これもまた、事実が確かめられないままで噂が広がれば、「朝鮮人が爆弾、死傷者続出」という記事になったかもしれないし、あるいはこれを耳にした自警団の誰かに、朝鮮人への報復感情をおおいに煽ったかもしれない。

2014年10月21日火曜日

ポール・クローデル(フランス駐日大使、詩人)


災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。
いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。
こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。
私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。
宇都宮では16人が殺されました。
日本政府はこの暴力をやめさせました。
しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。
(ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の1920年代』草思社)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎

ポール・クローデル[1868 -1955年]は外交官であると同時に詩人、戯曲家。彫刻家のカミーユ・クローデルの弟。関東大震災の際は自ら被災した。上の引用は、震災直後の書簡の内容。


2014年10月17日金曜日

現在の両国・国技館附近での虐殺



(九月)五日の日であった。
「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時か死して行く。
死せし者は隅田川にと投げ込む。
その物凄さ如何ばかり。我同胞が尼港にて残虐に遭いしもかくやと思いたり。
ああ無慙なるかな。
中には良き人もありしに、これも天災の為にて致方なし。
(成瀬勝『大震災の思い出』非売品、2000年)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
震災当時20歳で、深川区相生町の左官材料問屋で奉公していた成瀬勝さん(1932年年没)が残した手記を、親族の方が2000年に出版したもの。手記そのものは、震災の翌年に書かれている。手書きの原文を新かなで活字化している。
惨劇があった「御蔵橋」とは、当時、隅田川から引かれた入堀の上にかかっていた橋で、今で言うと、両国の国技館の正面にあたる。御蔵橋の位置を示す立て札が今も残っている。

御蔵橋での虐殺については、ほかにもいくつかの証言があるほか、日本人誤殺では立件された事件もある。

「尼港にて~」とあるのは、震災の3年前にあった「尼港事件(1920年2月)」を指す。

「朝鮮人」として憲兵に刺殺された車掌


あの晩、私は入谷の市電車庫にある電車の中で泊まったんですよ。
朝鮮人騒ぎで、若い男が警備にあたっていました。
そこに、電車の運転席の下についている網の中で寝ていた人がいましてね。
だれかが、その人をみて『朝鮮人だ』って叫んだんですよ。
その人、びっくりして逃げ出したんです。そしたら追っかけた憲兵が頭を一突きにしてしまいましたよ。
その人、最後の力をふりしぼって、ポケットの中から木の札を出したんです。
それが車掌の証明書だったんですね。日本人でしたよ
(松野富松、当時11歳で浅草在住)


朝鮮人が井戸に毒を入れたというので水も飲めなくなり、自警団がつくられました。
六郷の土手に検問所ができて、朝鮮人は土手の桜に縛りつけられていたそうです。
川崎の私の家の前にも検問所ができて、棒でたたかれて死にそうになっている人を見ましたよ。
なんでも、その人は身なりが悪いという理由だったそうです
(飯山鈴子、当時7歳で川崎在住)



(略)それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。
どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。
ほんとうに戦争みたいだった
(萩原つう、当時15歳で恵比寿在住)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)


(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名の50人に当時の経験を語ってもらうもの。そのなかで朝鮮人迫害に関連する証言のうち印象的なものを、上にピックアップした。最後に挙げた稲垣浩以外は無名の人々だ。