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2014年10月29日水曜日

神奈川県知事「隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」

神奈川県罹災状況(1923年9月4日、神奈川県知事・安河内麻吉)

   ○鮮人に就いて兎角の風評高し
一日の地震に際し、横浜の刑務所を開き、在監囚支那人鮮人合して約一千名を解放せり。
此事が大いに市民に恐の念を懐(いだ)かしむ。
即ち良民青年団員は自衛上必要として自ら武器を以て起ち、警官を助けて警察保安に任ぜしが、民心激昂の際とて、鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず。

一方鮮人側に在りでは解放の後ち獄衣を普通衣に改めんとして良民を剽剥ぎするもの多く、また何分には施米は邦人を先きに、鮮人に容易に及ばざる関係上、飢渇を覚えては邦人の糧食を無理に強奪するものあり。
これらの乱暴が甲より乙に伝はり、また丙に漸次噂に噂を生じ、はては「鮮人隊伍を組み銃器を携へて襲来し、掠奪凌辱を檀にす」との揚言高く、青年団員の激昂殆ど其の頂に達し、前記の始末に及びたる次第なりと。

かくて鮮人は、良民たると暴徒たるとの差別なく、到底市に止まるを得ず。
身を以て免かれて杉田、金沢、保土ヶ谷など諸方に遁走せしが、これらがまた地方騒擾の原因を作し、現に、杉田、金沢方面の住民は痛く鮮人を恐れて、急を追浜航空隊に報じ救援を求むること切なり。
即ち、航空隊よりは、五人あるいは八人と、小人数の隊伍を各地に派遣し、警戒に任ぜしむ。
一人も現行犯ある鮮人を見出さざりしと言ふ。

兎に角鮮人にして我邦に反感を抱くもの此の天災を機としてあるいは放火し、または掠奪し、井水に毒を投じて毒殺を計り、爆弾を使用して邦人を暗殺し、婦女子を凌辱して獣欲を逞しうするの悪漢固よりこれなきを保せず。
必ず噂の生ずる所其の真原因あるべきも、また良鮮人にして不幸これら暴徒と同一視せられたるもの必らず多かるべく、これらの人にしては実に気の毒に堪へざる次第なり。

鶴見にては、警察官の処置宜しきに叶ひ、早く良鮮人三百人を一団として警察に保護し、禍を未前に防ぎ得たりと。
川崎鶴見程ヶ谷方面鮮人に対する諸種の流言輩語盛に行はれ、人民競々たりしも、事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています



解説◎
横浜に派遣された侍従武官・四竈孝輔(しかま・こうすけ)海軍少将[1876 - 1937年]が、安河内県知事から聴取した内容をまとめたもののうち、朝鮮人関連の項。
「隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無」であり、「一人も現行犯ある鮮人を見出」せなかったにもかかわらず、「鮮人と見れば善悪の差別もなくこれを殴打し、あるいは致死せしむるもの殆ど其の数を知らず」という状況であったことを伝えている。


地震発生から4日目で、まだ深刻な混乱が続いていた時期のものなので、事態の全貌が掴めず、〝 横浜刑務所から解放された朝鮮人が追いはぎをしたといった不確かな情報も混じっている。
横浜刑務所の解放は事実だが、囚人にとくに朝鮮人が多かったということはないだろう。
念のため加えて書き添えておけば、「固よりこれなきを保せず」とは、「もちろんないとは言い切れないが」という意味である。
朝鮮人による暗殺などもあったがという意味ではない。


横浜の状況については、当ブログではほかに、横浜市長神奈川県警察幹部神奈川警備隊司令官による記録を収録している。

警視庁幹部「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人もない」

朝鮮人の噂は何所から出たか今も消えぬので弱る/
大元は横浜らしい
警視庁木下刑事部長は勿論実際捜査の任に当たつた小泉捜査課長も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と断言してゐるが、それにしても鮮人に関する極端に奇怪なる流言は何処から来たのか、ずいぶん苦心して調べてゐるらしいが未だにはつきりした出所がわからない。
木下部長は「何んでも流言の元は横浜なのであるがそれ以上にはつきりしない。
従つてどんな種類の人間が流言の口火を切つたのかもわからないが流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである。
未だにこの流言は無くならず、色々な風説に形ちを変へては出て来るので実は困つてゐるのだ。
本庁ではいま先ず第一の力を暴利取締りに注いでゐるが火事場の泥棒及び戸締のうすいのを幸ひに忍び込む奴、或(あるい)は婦女誘拐(これは取締厳重なのでまだ無いやうだが)乃至は脅喝(この騒ぎを幸ひに実業家乃至富豪などを脅喝して金品を強請するもの)などの警戒と共に流言は殊に厳重に捜索取締をしてゐる」と云ふ。(読売新聞1923年9月15日)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。


(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2』緑蔭書房、2004年)

2014年10月23日木曜日

1ヵ月も閉じこもった朝鮮人の職人


余震もどうやら治まり、皆がひと安心した頃、突如として朝鮮人さわぎが起こった。朝鮮人が暴動を起こし、日本人を皆殺しに来るとのことである(今思えば流言飛語であった)。
町の若衆たちで自警団がつくられ、竹やりや日本刀をたずさえて武装し、路行く人の警戒に当たっていた。(略)
「朝鮮人が平塚橋までやって来た」とのうわさで、またまた島津公爵の竹林へ逃げ込んでしまった。
地震よりもおそろしく、殺される思いがして、ふるえながら一夜を明かしたが何事もなかった。
家の裏長屋に植木職の森下さんという人が住んでいたが、従業員に真面目な朝鮮の人を使っていた。
しかし、そんなことがあってから約一ヵ月ぐらい一歩も外へ出ず、家の中に閉じこもっていたことを思い出す。
(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

解説◎
品川区大崎(現在)に住んでいた浜谷好男さんの証言。当時、12歳。

海軍少将が記録した「デマが生まれる現場」


(9月3日)御所より帰途市ヶ谷見付にて町内世話人三武氏に遇ふ。
土手三番丁も今夜より不逞の徒警戒のため夜警を出すこととなりたる故、各家より男一人宛出せとの勧告あり。
依って熟考の上自らも夜警の任に当らんと約して帰宅す。
即ち自らは、前夜半の直に当ることとし、町内巡回夜讐を勤む。
警戒配置を定むるも、烏合の衆にて中々にうまく行はれず。
配置の哨兵はほしいままに哨所を離るること多く、平日軍事教育の必要はかかる場合において痛切に感得せられたり。
夜警の人々は何(いず)れも日本刀を佩(お)び、あるいは拳銃を携行、危険限りなし。
警戒の人々何れも甚しく興奮の姿あり。
此の一夜尚ほ二回の滑稽を演じたるあるをここに記さん。

一、午後十一時頃、四谷側濠縁にて盛に非常喇叭(ラッパ)を吹奏し、提灯は右往また左往呼子を吹いて喊声(かんせい)を発し、通る自動車を呼び止めては水面を照射せしむ。
土手三番丁側また多く濠縁に降り、騒々しきこと言語に絶す。
其内銃声を聞くこと数回なり。
而して遂に何等獲物なく、十一時半頃皆失望の姿にて旧位に復す。
これは遂に何事か明かに知る由なかりしも、実は翌朝独り土堤上を巡視せしに、濠内に三羽の鵜あり。
頻りに餌を探しつつ水面に出没するを見たり。
此夜不逞鮮人御濠の内を泳ぎ廻り、水面波紋を見たる鮮人とは恐らく此事なるべし。
疑心暗鬼とは此のことなるべし。

二、午前一時頃哨兵二名大声疾呼して日く、「只今鮮人が電車内に爆弾を抛(ほう)り込み、車内に爆裂して避難者多数を殺戮す」と。
如何にも真しやかなり。
我れは此附近に在りしも嘗て其頃爆発を聞かず。
駈けて現場附近に至れば、すでに一同集団して極めて騒々しく、さりとて電車に逼りそうにも見えず。
ただに遠巻きの有様なりければ、予は横槍を出し、暫時一同の静粛を希望し、電車よりの訴を聞くに、「悪うございました。不注意で提灯を燃焼しました。なにも怪我等はありませんから御安神を願ふ」との滑稽なり。
先づ先づ一同笑ひ話にて解散、配置に就かしむ。
(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年)

注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。




解説◎
四竈孝輔(しかま・こうすけ)は[1876 - 1937年]海軍軍人(中将で退官)で、震災当時は宮内庁で侍従武官を務めていた。
『侍従武官日記』は彼が1917年から26年まで記していた日記を刊行したもの。震災当時は少将で、1925年に中将で退官した。

引用した上の箇所には幻におびえて右往左往する人々の姿が描かれている。これは当時の自警団をめぐるひとつの典型的な光景と言ってよい。そして、そこに含まれている可能性に想像を働かせていただきたいと思う。

前者の事例では、四竈が翌朝、お堀を泳ぐ「不逞鮮人」の正体が鵜であったことに気づく。だが、それに気づかないままの人が新聞記者の取材を受ければ、「お堀に潜んで何事かをたくらむ朝鮮人の恐怖」といった記事が出来上がるだろう。あるいは、もし実際に迫害を逃れた朝鮮人がお堀に隠れていたとしたら、「銃声を聞くこと数回なり」とあることを思えば、彼は何も悪事を行っていないのに撃たれて死んだかもしれないということだ。

後者の事例では、提灯を燃やしてしまっただけのことが、電車内に朝鮮人が爆弾を投げ込んで多数の死者が出たという話にあっという間に発展してしまう伝言ゲームの恐ろしさが描かれている。
当時の異常な心理状況を想像させるエピソードだが、これもまた、事実が確かめられないままで噂が広がれば、「朝鮮人が爆弾、死傷者続出」という記事になったかもしれないし、あるいはこれを耳にした自警団の誰かに、朝鮮人への報復感情をおおいに煽ったかもしれない。

2014年10月21日火曜日

ポール・クローデル(フランス駐日大使、詩人)


災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。
いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。
こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。
私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。
宇都宮では16人が殺されました。
日本政府はこの暴力をやめさせました。
しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。
(ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の1920年代』草思社)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎

ポール・クローデル[1868 -1955年]は外交官であると同時に詩人、戯曲家。彫刻家のカミーユ・クローデルの弟。関東大震災の際は自ら被災した。上の引用は、震災直後の書簡の内容。


2014年10月17日金曜日

現在の両国・国技館附近での虐殺



(九月)五日の日であった。
「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時か死して行く。
死せし者は隅田川にと投げ込む。
その物凄さ如何ばかり。我同胞が尼港にて残虐に遭いしもかくやと思いたり。
ああ無慙なるかな。
中には良き人もありしに、これも天災の為にて致方なし。
(成瀬勝『大震災の思い出』非売品、2000年)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
震災当時20歳で、深川区相生町の左官材料問屋で奉公していた成瀬勝さん(1932年年没)が残した手記を、親族の方が2000年に出版したもの。手記そのものは、震災の翌年に書かれている。手書きの原文を新かなで活字化している。
惨劇があった「御蔵橋」とは、当時、隅田川から引かれた入堀の上にかかっていた橋で、今で言うと、両国の国技館の正面にあたる。御蔵橋の位置を示す立て札が今も残っている。

御蔵橋での虐殺については、ほかにもいくつかの証言があるほか、日本人誤殺では立件された事件もある。

「尼港にて~」とあるのは、震災の3年前にあった「尼港事件(1920年2月)」を指す。

「朝鮮人」として憲兵に刺殺された車掌


あの晩、私は入谷の市電車庫にある電車の中で泊まったんですよ。
朝鮮人騒ぎで、若い男が警備にあたっていました。
そこに、電車の運転席の下についている網の中で寝ていた人がいましてね。
だれかが、その人をみて『朝鮮人だ』って叫んだんですよ。
その人、びっくりして逃げ出したんです。そしたら追っかけた憲兵が頭を一突きにしてしまいましたよ。
その人、最後の力をふりしぼって、ポケットの中から木の札を出したんです。
それが車掌の証明書だったんですね。日本人でしたよ
(松野富松、当時11歳で浅草在住)


朝鮮人が井戸に毒を入れたというので水も飲めなくなり、自警団がつくられました。
六郷の土手に検問所ができて、朝鮮人は土手の桜に縛りつけられていたそうです。
川崎の私の家の前にも検問所ができて、棒でたたかれて死にそうになっている人を見ましたよ。
なんでも、その人は身なりが悪いという理由だったそうです
(飯山鈴子、当時7歳で川崎在住)



(略)それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。
どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。
ほんとうに戦争みたいだった
(萩原つう、当時15歳で恵比寿在住)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)


(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)

注)読みやすさを考慮して、句点ごとに改行しています。


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名の50人に当時の経験を語ってもらうもの。そのなかで朝鮮人迫害に関連する証言のうち印象的なものを、上にピックアップした。最後に挙げた稲垣浩以外は無名の人々だ。





橋爪恵 | (下)提灯の反射を燐光と早合点


読売新聞1923113よみうり婦人欄

汲んでも汲み尽せぬ 井戸に入れる毒 常識で判断し得る事

橋爪恵 | (下)提灯の反射を燐光と早合点
面白かつたのは、私の町の自警余談である。私は或る人に頼まれて、どこそこの井戸水は素敵に光つてゐるが、あれは確に毒薬が入つてゐるから見てくれといふのであつた。馬鹿々々しいとは思つたが兎に角言はれるままに或井戸へ行つた。井戸水が光つてゐるのならこいつは恐らく黄燐か猫いらずがあるんだなと思つた。私はその水を試験管にとつて検査したが黄燐でもなければ猫いらずでも無かつた。その人は自分の提灯の反射を見て水が光つたと思つたらしい。
も一つは妙齢の婦人がポンプ井戸を汲んでゐたところを自警の男が怪しいとにらんで女流主義者が井戸に毒薬を投げ込んだと伝へられたのであつた。また私は近所の人に引出されてしまつた。よく見るとなるほどポンプ井戸の柄には白いものが附いてゐた。匂いをかいだら、ぷうんと良い薫りがした。そこで私は白粉(おしろい)だなと思つて、水を汲んで自警団に引つ張られた泣きはらした婦人に「この際白粉は廃めたらどうです」といつてやつた。それは果たして白粉なのだつた。白粉で化粧して井戸水を汲みに来た女も女だが毒薬をぶち込んだ女流主義者なんて思ひつめた自警の人達(その人達は常に教養があるといつてゐた)にもあきれざるを得ない。
あのどさくさ紛れに、かてて加へて薬品の払底した頃、どうして毒劇薬を買占めることが出来よう。況して石炭酸とか硫酸重クローム酸昇水などを汲めども尽きぬ井戸水に投げ込んだからとて効くかどうか常識によつて判断されることである。厳めしいダイナマイトの投入はどうだか一向知らないが井戸に毒薬を入れたらしい犯人としてこれを直に主義者と見てとつた上に善良な人々を絞殺(しめころ)したり斬り殺したのは何たる文化の逆行、何たる反道徳、何たる非立憲の行為、何たる無政府主義、何たる血に飢ゑたもの共であるのか。サンフランシスコやロンドンの災害には断じてこの種の非科学的妄動は一も無かつた筈(はず)だ。
(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房2004年に収録)


解説◎
橋爪恵は、橋爪檳榔子の名前でも知られる医療評論家。略歴

要するに、井戸水の量を考えれば、そこで希釈されてもなお、人を死に致らせるには大量の毒薬が必要になる、もちろん、わずかな量でも人を死に致らせる毒薬もあるにはあるが、高価で希少なそうした劇薬を、朝鮮人や社会主義者が買い占めることができるかどうか、常識で考えてみるべきだ、というのが橋爪の主張であろう。

橋爪恵 |(上)そんな毒薬は手に入らぬ

読売新聞1923112日|よみうり婦人欄
汲んでも汲み尽せぬ 井戸に入れる毒 流言蜚語の優等賞

橋爪恵(上)そんな毒薬は手に入らぬ

今度の災害で、先ず何よりも多くの人々の脳裡にきざみ込まれたのは、化学品の恐るべく、あなどるべかさるの一事であった。多数の焼死者の多くは、一酸化炭素とか窒素化合物を余儀なく吸ふことによつて果敢ない最期を遂げたのもその一つ。半焼けの建築物とか将来危険な家屋が黄色火薬の偉力で壮快に爆破されたのも化学薬の偉大な力であつた。
鮮人や主義者のダイナマイトの流言浮説も薬品のもつ化学作用の脅威からであつた。更に医薬品の不足で人心の安定を欠いたことによつて如何に化学力の熾烈さが明かにされたであらう。焼死したもの水死したものの数が罹災地だけで十万と呼ばれてゐるが、正と死の間一髪を取扱ふ重要な薬品の不足は更にそれ以上の罹災患者たちの貴い生命を奪ひ去つたといはれる見殺しのざまだ。
更に奇怪極まる化学力の脅威は、鮮人や主義者が、未曾有な天変地異を利用して、井戸の水に毒薬を投げ込んだといふ言葉であつた。蜚語も茲(ここ)まで来ると滑稽を飛び越えて何とも言ひやうもあるまい。
何処の誰が言ひふらした言葉であるか知らぬが、馬鹿気た巧妙さだと思つてゐる。浮説も茲まで来ると優等賞であり、この浮説に左右されて異常な虐殺を敢へてした我日本人は何といふ劣等生なのだ。
なるほど日本薬局方に収載されてゐる毒薬は二十種ほど。そして劇薬は八十種ぐらゐはある。
汲めども汲めども尽き果てぬ井戸水にこれらの毒劇薬を投げ込むことによつて、果たしてどれだけの実効があるのか。
毒薬のうちで一番凄い極量を示してゐるのは、カンタリヂンとアコニチンとそしてブローム水素酸スコポラミン。これらは何れもその〇・〇〇〇五瓦(グラム)が極量とされてゐる。
然しいくら抜目のない鮮人や主義者のひどい奴だからといつて生一本な毒薬の壷を手に占むることも出来なければそれを供給する人間も無い筈(はず)だ。

(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房2004年に収録)
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。



解説◎
橋爪恵は、橋爪檳榔子の名前でも知られる医療評論家。略歴

要するに、井戸水の量を考えれば、そこで希釈されてもなお、人を死に致らせるには大量の毒薬が必要になる、もちろん、わずかな量でも人を死に致らせる毒薬もあるにはあるが、高価で希少なそうした劇薬を、朝鮮人や社会主義者が買い占めることができるかどうか、常識で考えてみるべきだ、というのが橋爪の主張であろう。

2014年10月15日水曜日

船橋警察署巡査部長の手記/船橋駅前での虐殺

大正十二年九月四日午後一時頃、元吉署長から、「北総鉄道工事に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引継いで、習志野の捕虜収容所に連れて行くように。」と命ぜられた。
私とほか数人の警察官が出掛けて行き、天沼の附近まで行くと、騎兵が前後について手を縛られている朝鮮人約五〇人位が列をなしてやって来た。
私達はその騎兵に手を拡げて、「この人達を我々に渡してくれ!」とお願いした。すると騎兵隊は、「船橋の自警団に引き渡せと命令を受けて来たので、駄目だ。と聞き入れてくれなかった。
「若し船橋に行くと皆殺しにされるから、引き渡してくれ」と押し問答しているうちに、丁度その時、船橋駅附近で列車を停めて検索していた自警団や、避難民の集団に発見された。
警鐘を乱打して、約五百人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。
私は、ほかの人達に保護を頼んで、群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った。
署に着いて元吉署長にその状況を報告すると、署長は、「警察の力が足りないので致し方ない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ。」と命ぜられた。
私が直ぐ引き返していくと、途中で、「万歳!万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。
現場に行ってみると、地獄のありさまだった。
保護に当っていた警察官の話では、「本当に、手の付けようがなかった。」とのことであった。
調べて見ると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた。人間が殺される時は一ヵ所に寄り添うものであると思い、涙が出てしかたがなかった。
後で判ったことであるが、船橋の消防団員が、朝鮮人の子ども二人を抱えて助け出し、逃げて警察に連れて来たとのことだった。少しは人の情というものが残っていたと思った。
五三人の屍体は、附近の火葬場の側に一緒に埋めたが、その後、朝鮮の相愛会の人達が来て、調査するとのことで屍体を焼却して散乱してしまった。
      千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』青木書店
      に収録された渡辺良雄さんの手記「関東大震災の追憶」から。

注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
震災当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんによる手記。渡辺さんはその後、千葉警察署長まで務めて退職し、千葉市助役を経て戦後は千葉県議会議員に(4期)。所属は自民党である。手記のこの部分では、船橋駅前での虐殺の状況が記録されている。同時に、朝鮮人団体が来る前に遺体の隠蔽工作をしたという記述が重要だ。「相愛会」は、後に衆議院議員ともなった親日派(対日協力者)の朴春琴(パク・チュングム)らが創設した在日朝鮮人団体。

船橋警察署巡査部長の手記/流言飛語について

警察電話が鳴るので受話器を取って聴くと、「ただ今、東京市内から来た朝鮮人と市川の砲兵隊が、江戸川を挟んで交戦中です」との情報が入った。
これが流言の最初であった。
私は、平和であった東京に大変なことが起ったと思いながら、元吉署長にその旨を報告した。九月二日の午後のことであった。
私達は、東京からの避難民を、船橋小学校の雨天体操場や習志野捕虜収容所や兵舎等に誘導収容して、不眠不休の活動が続いた。
九月四日になると、色々な事実無根の流言が飛びかった。
「朝鮮人が約二千人、浦安町に上陸して、自転車隊となり船橋の無線電信所を襲撃する。警戒せよ!」「船橋の三田浜海岸に、朝鮮人が数隻の船で上陸する。警戒せよ!」「只今、中山で警官と朝鮮人が衝突し、多くの怪我人が出た。」「朝鮮人が、東京で井戸に毒薬を入れたり、婦女暴行騒ぎ等があって大変だ。」その他、色々な流言が飛んだが、警戒したり調査すると、根も葉もない流言であったことが判明した。
これらの流言も、冷静に判断すれば直ぐに判ることであった。浦安に上陸して二千人の自転車を調達することは出来ないことであったし、後で考えてみれば良く判ることである。
大事に際して、冷静沈着が大切であると思う。

    千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』青木書店
    に収録された渡辺良雄さんの手記「関東大震災の追憶」から


解説◎
震災当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんによる手記。渡辺さんはその後、千葉警察署長まで務めて退職し、千葉市助役を経て戦後は千葉県議会議員に(4期)。所属は自民党である。手記のこの部分では、警察内部での連絡を通じて流言が拡大していくさまが記録されている。

2014年10月10日金曜日

神奈川県警察幹部の震災総括


(略)余震が絶えなかつたので、さらでだに再び大地震大海嘯の来ることを予想し、何れも不安に陥つて居る際、誠しやかに大地震の再起、大海嘯の襲来を各地に伝へ、又た不逞鮮人の暴行、解放囚人の掠奪等罹災民を脅威するの流言飛語相次で起り、偶々一部不逞者(注)の暴行掠奪などがあると針小棒大に伝はり人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何に之を安定せしめんとしても容易に緩和されず、震後三、四日で軍隊の出動、応援警察官の来援があつても不安状況はなかなか去らなかつたのである。
震災翌日から県下到る所に結成された所謂自警団は竹槍、刀剣や甚しきは銃器を携帯して集団避難民又は部落を警固し、且つ不逞者に備ふる等、不穏の状態を現はして来たが、彼等は統率者なき烏合の衆なので、動(やや)もすれば無辜の民を殺傷し、夜間同志打の悲喜劇を演じ、震、火災の惨禍には万死に一生を得ながら、不幸茲(ここ)に命を落す者も少なからずあつて自衛の域を超えて警察本然の権力行使をも為し、甚しきは殆んど暴民と異なるなく、違警状態は随所に発生し、取締に多大の困難を来し、鋭意其の不法を諭示して不法行為なからしむることに努めたが応ずる者極めて稀で、却て反抗的気分を以て対抗し来るものあり…(略)
(西坂勝人『神奈川県下の大震火災と警察』警友社、1926年)


解説◎
西坂勝人は当時、神奈川県警察部の高等部長。注とした部分の「不逞者」とは、ここでは、横浜市内各地で略奪を展開した山口正憲一派や、倉庫に押し寄せて生活必需品を奪った被災者たちのことを指していると思われる。
この文章では、警察が冷静に対応したように書いているが、必ずしもそうではなかったことに注意して読むべきだろう。詳細は不明だが、横浜では、警察署長が「朝鮮人は殺してもよい」と言ったとか、あるいは警察官が自ら朝鮮人を殺害したという証言もある。

2014年10月6日月曜日

志賀直哉(作家)


軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
・・・・・・・・・・・・・・・
そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・
鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛(きらく)することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
「震災見舞」(『日本の文学22 志賀直哉(二)』中央公論社、1967年)



解説◎
「震災見舞」から箇所を抜粋。当時京都に住んでいた志賀直哉1883 ー  1971年]が、東京の父親を案じて、数日をかけて震災直後の東京を訪れたときの実見録。

2014年10月3日金曜日

「田端は『放火線』に入っちゃった」


そこへ一人の書生が帰つてきた。
『さァ大変だ。田端は放火線に入つちゃつた。』
と、云って居る処へ、どやどやと家の若い連中が帰つて来た。そしててんでが日本刀だの、大きな樫の木の太刀だのを持ち出し、書生は白い鉢巻など締めて居ました。
『放火区域と云ふことがどうして知れるのです』
と、私が尋ねますと、
『奴等にはちやんと暗合が有つて、昼の間にその印をつけて行くのです。
にトの印は爆弾投下、にトは井戸水に毒を入れることです。ここにはトの印がついていますから』
と、白い鉢巻をして居た男がこう云つた。これから、四人の男が、家の周囲をぐるぐる廻はつて警戒しはじめた。もう、あたりは殺気立つて、どこかで、ワツ、ワツと鬨(とき)の声を上げて居るのが聞える。それで湯島から来て居られる末の嬢さんなどは恐はがつて、ワイワイ泣かれる。それを女二人が無理に寝かしつけて居る処へ、表から町の救護団員が走って来た。
『佐々木さん。皆出て下さい。奴等が五十人乗り込んだ相ですから
この声で、裏だの、横手に居た家の連中が帰つて来た。
『さァ面白くなった。留守を願いますぜ』
と、奥田君迄でが年甲斐もなく後鉢巻なんかして、長い日本刀を差して出て行つた。もう来次第に皆殺しにすると云ふ。恐ろしい馬鹿な考へに皆が気をいらだたして居るのです。
(吉村藤舟『幻滅 関東震災記』泰山書房仮事務所、192311月)

解説◎
作家の吉村藤舟1884 - 1942年]が田端の知人の家で93日に経験した話。当時の人々がいかに幻想的な流言を信じ込んでしまっていたかよく分かる。

2014年10月1日水曜日

寺田寅彦(物理学者、随筆家)


九月二日 曇
(略)
帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入(い)るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。

(寺田寅彦「震災日記より」青空文庫)

解説◎
寺田寅彦[1878 - 1935年]は物理学者だが、夏目漱石に師事して多くの随筆を書き残した名文家としても知られる。「震災日記より」の全文はこちらで読むことができる→

「噂はデマとわかって帰宅し、二日ぶりに食事にありついた」


小林三谷樹(品川区大井山中町住民)

翌二日、朝昼兼用の食事の準備を終えたとき、井戸に毒薬を入れた者がいるとの騒ぎで、食事を中止せざるを得なかった。
『横浜に暴動が起こった』『暴徒が川崎、大森あたりまで襲って来た』
『このあたりは今夜が危ない。早く分散して逃げたほうがよい』
このように噂が乱れ飛び、近所の人たちと現在の二葉町へ避難し、旧家の庭で野宿をした。ランニング一枚の肩は蚊に襲われ、また夜半の冷気はまったく無情なものだった。
翌三日になって、噂はデマとわかって帰宅し、二日ぶりに食事にありついた。

(品川区『大地震に生きる 関東大震災体験記集』1978年)