2017年4月20日木曜日

虐殺を扱った内閣府「関東大震災報告」“削除”問題について

(『九月、東京の路上で』Facebookより転載)

加藤直樹
(記事投稿の数日後「報告書」は復活しています)


たぶん皆さんが思っている以上に、この問題は深刻な意味をもっている。

4月19日の朝日新聞朝刊に「『朝鮮人虐殺』に苦情、削除/災害教訓の報告書/内閣府HP」という記事が掲載された。しかしその日の午後、内閣府は削除の予定などない、今月中に際掲載する―と時事通信の取材に対して表明した。

だがこれをもって朝日の記事を誤報と決めつけることはできないだろう。というのは、この前日、ある人が内閣府中央防災会議に問い合わせた際、担当者が「リニューアルに際して、(専門調査会)報告書をすべて削除する」と公言した事実があるからだ。この数か月の森友騒動で、私たちは、官僚が「ない」と言えばそれだけでそれが「ない」と考えるほどナイーブではなくなったはずである。

現在も内閣府HPからは専門調査会報告がすべて削除されたままであり、内閣府が本当に「すべて再掲載する」のかどうか、予断を許さない。

内閣府中央防災会議の「災害の継承に関する専門調査会」は、江戸時代以降の災害の教訓を示す目的で設置された。災害ごとに、優れた地震学者、歴史学者、社会学者たちがいくつもの報告書をまとめている。

朝鮮人虐殺について言及している「1923関東大震災報告書第2編」(以下、「第2編」)は、2008年3月にまとめられたその1冊だ。いま、“削除中” なのは、安政の大地震まで含む報告書のすべてである。朝日の報道を読む限りでは、「第2編」を削除したいがためにその他の報告書もすべて削除しようとしたように思われる。

もちろん、仮にこのまま内閣府HPから消えても、文書の存在が消えるわけではない。国会図書館まで足を運べば、閲覧は可能である。その内容が否定されるわけでもない。だが、ネット上で「第2編」が読めなくなることは、虐殺の史実を守る上で深刻な意味をもつ。それはどういうことか。

2009年、工藤美代子名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)という本が出された。2014年には加藤康男(工藤の夫)名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(WAC出版)という題名で再刊された。

以来、これらに触発されて、ネット上には現在、「朝鮮人虐殺否定論」が溢れかえっている。図書館や書店でまともな歴史の本を読み、調べれば、否定論など全く成立の余地がないのだが、検証の手段の少ないネット上では数の力でまともな議論を圧倒する勢いだ。

内閣府HPに行けば誰でも閲覧可能な「第2編」の存在は、否定論に対するネット上の最大最後の防波堤である。

政府機関である内閣府の下で、優れた学者たちが(自民党政権下で)まとめたこの報告は、虐殺をめぐるこれまでの学問的な蓄積を手堅く穏当にまとめた信用できる内容であり、朝鮮人虐殺についての貴重な入門書にもなっている。軍の虐殺関与も含め、大事な論点は網羅されている。

15年1月のNHK「クローズアップ現代」でも、16年9月のETVの朝鮮人虐殺特集でも、この「第2編」を前面に押し立てて番組を作成している。「第2編」がなければ、今のNHKであのような番組をつくることは不可能だっただろう。

虐殺否定論が跋扈するネット上で、その存在は「消防署」のようなものとも言える。

私も「民族差別への抗議行動・知らせ隊」の仲間や先輩方と共に「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」という虐殺否定論批判のサイトをつくった。だがそこで提示する資料や記述にも、この「第2編」に由来するものが少なくない。
つまり私たちのサイトは「消防団」のようなものであり、「消防署」なしでは十分な働きはできない。

もしこのまま「第2編」という消防署がネット上から消え去ってしまえば、ネット上では「朝鮮人虐殺はなかった」という、トリックと大声を武器とする“放火魔たち”が席巻するようになる。3年後には「虐殺? あったのかなかったのか分からないな」というのが“常識的立場”ということになるだろう。

そしてネット上でそうした歴史歪曲が勝利すれば、政治家の間にもそれは浸透し、あるいは人気取りのために積極的にそれに迎合する政治家も増える。そうなれば政治の力によって、「虐殺はなかった」は、ネットの“常識” から世間の“常識” となる。そうなれば学者たちは沈黙する。教科書からも“削除”される。あっと言う間だろう。「第2編」がネットで閲覧できるか否かは、歴史歪曲の拡大を防ぐ上で致命的に重要なのだ。

もう一つの深刻さは、内閣府HPにかつて掲示されていた文書を政府自らが削除するという行為自体が帯びる「メッセージ」である。

そのとき私たちが、「この文書は国会図書館で読める、今も内閣府の文書として存在している」と主張しようが、否定論者たちは、「削除されたということは信用できない内容だったということを意味する」と言うだろう。「第2編」は、人知れず存在しても、信用されない文書になる。無効化される。この点でも、「第2編」の「削除」は致命的な効果をもつ。

このまま「削除」されるのか、内閣府が19日の午後になって公言し始めたように「再掲載」されるのか。その選択がとても大きな意味をもつことを理解していただけただろうか。

朝日の取材に対して防災会議の担当者は「苦情が多かったから削除する」という趣旨のことを語ったと記事にはある。真相は分からない。これが事実だった場合、果たしてそれは単なるネトウヨの抗議電話を意味するのだろうか。

「削除しろ」という政治家の介入があった可能性を考えるべきだろう。そしてその政治家の介入の背後に、負の歴史の「削除」を推し進める右派団体の執拗なロビー活動が存在する可能性もある。

だとすれば私たちは、「単なるリニューアルです。再掲載しますから」という官僚の言葉にほっとしている場合ではない。歴史修正主義者たちは今この瞬間もロビー活動を続けているかもしれないからだ。その結果、形式上は「再掲載」だが実際にはアクセスできないまま―といった結果を見るかもしれないのだ。

かつてまともな政治家や官僚たちが学者たちに「災害の教訓をまとめてください」と依頼し、優れた学者たちがそれに応えて教訓を書いた。関東大震災時の虐殺から学者たちがつかんだ教訓は次の通りである。

「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく。その上で、流言の発生、そして自然災害とテロの混同が現在も生じ得る事態であることを認識する必要がある」(『第2編』「おわりに」)。

「第2編」の閲覧停止は、この教訓を私たちが未来に向けて守れないことを意味する。地震国であり、多民族が暮らす日本で、それは恐ろしい選択だ。

引き続き、「きちんと・ネット上で全て読めるように・再掲載するべきだ」という多くの人の声を上げる必要がある。引き続き多くの人が、多くの手段を通じて、内閣府に声を届けてほしいと思う。

(記事投稿の数日後「報告書」は復活しています) 

参考資料

朝日新聞記事 


時事通信記事


国会図書館のサイト保存プロジェクトで読める“削除中”の「第2編

2016年1月12日火曜日

警視庁による中国人虐殺事件の報告

警視庁広瀬久忠外事課長直話(192396日)

目下東京地方にある支那人は約4500名にしてうち2000名は労働者なるところ、93日大島町7丁目において鮮人放火嫌疑に関連して支那人および朝鮮人300名ないし4003回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊において青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊および自警団(青年団および在郷軍人団等)において約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁においては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将および戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方および同地残余の200名ないし300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(註:国府台)兵営において集団的保護をなす手はずとなりたり。
本事件発生の動機原因等については目下の所不明なるも支那人および朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なくただ鮮人については爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
なお全管内の支鮮人の保護は軍隊警察においてこれに当たり、管下各警察に対してはそれぞれ通達済みなり。 
        (アジア歴史資料センターHPレファレンスコードB04013322800)



注)原文はカタカナだが、ひらがなに直した。また、一部の漢字を開き、句読点を入れて読みやすくしている。



◎解説
中国人と朝鮮人が殺されたとあるが、大島で殺されたのは主に中国人であった。関東大震災から3日後の192393日、現在の江東区大島において、中国人労働者300人以上が、軍の部隊と群衆によって虐殺されたのである。この事件の全体像については、ブログ『9月、東京の路上で』「中国人はなぜ殺されたのか」で紹介している。

この文書は、震災後に政府に設置された臨時震災救護事務局の会議の場において、警視庁の広瀬外事課長が口頭で報告した内容を筆記したもの。国立公文書館が運営する「アジア歴史資料センター」のHPで実物の画像を見ることができる(リンク)。


ところで、この文書には「朝鮮人が爆弾を所持していた事例がある」という趣旨の文言が出てくるが、実際には、爆弾を所持した朝鮮人がいたことを示す司法記録も行政文書も存在しない。残っているのは、爆弾をもっているとして住民が連れてきた朝鮮人を調べて見ると、持っていたのは牛肉の缶詰であったという類の記録ばかりであり、実物の爆弾はついに発見されなかった。

96日といえばまだ混乱のさなかであり、この「爆弾」話も、当局自身の混乱を反映した誤報であろう。念のため書いておけば、関東大震災時に、朝鮮人、あるいは朝鮮人と誤認して日本人や中国人を殺傷したことで起訴された日本人は566人に上る一方で、殺人、放火、強姦などの罪で起訴された朝鮮人は一人もいない。

2016年1月7日木曜日

「イモを食わないのは、朝鮮人だ」


「日本国民の敵は、不逞鮮人だ!」とどなり歩く声があちこちで恐ろしげに響いていた。本所、深川あたりから罹災してくる人たちの声だったようです。この罹災民たちは、知らない人からもらった水や食物は、ぜったい口にしないといううわさでした。
(9月)4日になって私たちは田端から母の故郷の福島に向かったのですが、その車中で、すごい光景を見てしまいました。
途中の駅で罹災者にイモの差し入れがあったのですが、車中で一人の男がイモをもらったままにしていたのです。すると誰かが「イモを食わないのは、朝鮮人だ」と叫び始めた。屈強の男たちが4、5人、この 朝鮮人” を追い駆け回し、隣の客車まで逃げた男を連れ戻してきておいて、頭といわず、からだといわず、ところかまわず、なぐる、けるの乱暴を加えたので、男は口から血を吐いてとうとう死んでしまいました。
車中のかなりの人がそれを見て「バンザイ」などといって大喜びしているのです。私はなんと無残なことをするのかと腹立たしく思いましたが、まわりの人がこわくて黙っているしかありません。
そのほか、白河の少し手前でも、同じような朝鮮人を見い出し、列車の中でなぐり殺してしまいました。
大地震で日本国中の日本人たちが、狂っていたとしか思われません。私たちは集団になると、とんでもないことをしでかす民族かもしれないと思うと、いまでもゾッとします。(談)
(月刊「潮」19719月号)

解説◎
北沢初江さん(主婦)の証言。「日本人の朝鮮人に対する虐待と差別/日本人100人の証言」という特集で掲載されたもの。関東大震災時の虐殺について、多くの証言が取り上げられている。列車の車中で、イモを食わないという理由で殺された人がいたことは、当時の新聞にも出てくる。

2015年12月22日火曜日

海岸に打ち上げられた虐殺犠牲者の骨

虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着 

やまと新聞1924210日付夕刊



やまと新聞1924210日付夕刊(国会図書館所蔵)
クリックで拡大します。


虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着

昨日の暴風に打揚げられて/当局面倒がつて責任のなすりあひ

横浜子安方面では九月一日の大震災当時、気荒い漁夫連が多く居住して居たとて数百名の朝鮮人を殺害しその大部分は海中に放棄してしまつたが、八日の暴風のため波浪高く、腐 爛した肉をつけた白骨数多、同海岸へ打ち揚げ、しかも神奈川署では完全な骨組をしてないからと市役所へ廻すのを面倒がり、どこへでも埋めてしまへと取り合わぬので、同海岸はバラバラとなった人骨累々として鬼気人に迫るの物凄さである(横浜電話)
注)読みやすさを考慮して句点を追加しています。


解説◎
震災から5ヶ月後の記事。この記事から読み取れる恐ろしい意味は2つ。一つは、日本人なのか朝鮮人なのか、骨を見ただけで分かるはずがないのに、誰もが自然に「あのとき殺された朝鮮人の骨だ」と思い至るほど、震災時の虐殺がすさまじかったことが透けてみえるということ。次に、にもかかわらず、というより、だからこそ、警察も含め、誰もが見て見ぬふりをして遺骨にきちんと向き合おうとせず、むしろ逃げ回っているということ。

実際、残された多くの証言からは、横浜の虐殺はひどいものだったことが伺える。震災翌月の新聞にも「91日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態/市内だけで判明した鮮人死体は44名でこのほか土中、河、海に投げ捨てたものを入れると140150名を下らず、間違へられて殺された日本人さへ30余名あるといふ」(読売新聞19231021日付)とある。朝鮮総督府が秘密裏に行った調査では、殺された朝鮮人の「見込み数」は180人とされている。恐らくはもっと多いだろう。だがこのうち、殺人事件として起訴されたのは1件だけだ。

海岸に放置された犠牲者の遺骨は、その後、どうなったのだろうか。

2015年12月15日火曜日

戒厳参謀・森五六が回想する中国人虐殺事件(大島町事件)

【森の日記の記述(1923年)】

十一月十二日 雨・曇 月《西大久保自宅》
朝八時半登庁、業務詳報ノ調製ニ従事シ、午前十一時一寸帰宅、平服ニ改メタル後登庁。午後一時ヨリ法務局長・湯原法務官・山下少佐(註―奉文。陸軍省軍事課員)・木下刑事部長・森島領事(註―守人)・永井保安課長等ト大島町ニ行キ、支那人迫害の現場視察ヲ行ヒ、三時半帰庁。業務詳報ヲ調製シ、五時退庁帰宅。

【森の回想(1968年)】

右の日記で、この頃王希天事件の審議が続けられていたことがあきらかである。この事件は前述のように、王希天ほか二百余名が亀戸の小岩付近で殺害されたのである。十二日に現場を視察したが、付近は湿田で牛乳屋の牧場が散在し、ポプラが畔道(あぜみち)に散植されていた。殺害場所がどこかハッキリしないし、案内に来た警部補の話でも、同人がはじめて実見したときは、屍体を一見して数十名と目算したが、数えて見て二百を越すのに驚いたという。そこで、殺害場所をなるべく狭い場所ということにしようという相談をした。この事件は中・朝労働者に対する反感が著しく反映していたらしい。汪兆銘一行が来たときどのように回答しようかというので、回答文が審議され、外務省の松平(のちの宮相)・出淵両局長が原案を提示し、これを外務省に一任するということになった。このとき湯浅警視総監が、
「警視庁が嘘をつくのは嫌ですねェ!」
といったのを思い出す。

       (森五六・述/山本四郎・編「関東大震災の思い出 一戒厳参謀の日記と回想
『日本歴史』日本歴史学会編集19699月号)
注:文中の「註」は『日本歴史』原文編者・山本教授によるもの。

解説◎
上記は、関東大震災時に戒厳司令部で参謀を務めた森五六氏(当時、中佐)の日記と、それを踏まえた回想を口述したものを、山本四郎・華頂短期大学教授が筆記し、森氏がそれを校閲するという手順で書き残されたものである。

ここで語られているのは、一つには、亀戸の南、現在の江東区大島付近で93日に起きた、民間人と軍人による中国人虐殺事件(大島町事件)の現場視察の様子。「亀戸の小岩付近」は森氏の記憶違いだろう。大島町事件の様相については、ブログ『9月、東京の路上で』「中国人はなぜ殺されたのか」を読んでいただきたい。

もう一つ、ここで語られているのは、外務省、軍、警視庁が顔を合わせての虐殺事件の隠蔽についての協議の様子である。大島町の虐殺では生存者が一人だけいた。彼が上海に帰って中国メディアに虐殺のことを伝えたために、中国では世論が沸騰し、北京政府が東京に調査団を派遣することになった(「汪兆銘」も森氏の記憶違いで、正しくは「王正廷」)。そのため、政府は117日の五大臣会議の席上、中国人虐殺事件を出来る限り隠蔽することを決めたのである。それについては、当時の政府の内部記録を発掘した田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)に詳しい。

ちなみに、森氏の日記の19231214日の日付には「軍事課ニ到リ、大島事件ニ就テ当事者岩波少尉ヨリ希望ヲ聞ク」とある。岩波少尉とは、大島町事件で民間人とともに中国人を虐殺した、まさに「当事者」である。軍はそれを知っていたし、1980年代に発見された内部文書「関東戒厳司令部詳報」には、その記録も残されていた(下記ブログ参照)。にもかかわらず、岩波少尉を訴追することはなかったのである。

参考リンク◎
ブログ「9月、東京の路上で」

田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫、2014年)

早川徳次(シャープ創業者)

当時、亀戸のほうに第三工場にするつもりで五軒の長屋を買ってあり、四軒は空屋にしてあった。そこが無事なのがわかって、私たちは移った。日が経つにつれて離散していた従業員たちが続々やってきて、いちじは七十人ほどの大家族になってしまった。朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、
「朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」
という。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。しかし、かくまっているとただではおかないという風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。
(中略)
町で実際に朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった。いきなり後ろから頭を割られ、それでも歩いていて、ついに倒れると背中やお腹を金属の棒で突いているのである。こっちに力がないから止めることができず、もし止めようとすればこちらが殺られてしまっていただろう。
(早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』197410月号)


解説◎
家電メーカー「シャープ」の創業者である早川徳次[1893‐1980]の証言である。早川は当時30歳。いわゆるシャープペンシルを開発し、墨田区に工場をもって事業を展開していたが、関東大震災で全焼した。震災で二人の子どもを失い、2年後には妻も病で亡くなった。早川は震災後、大阪に移り、新事業に乗り出して家電メーカーとしてのシャープを発展させていった。ちなみに早川がかくまった「李さん」はその後、朝鮮に帰って弁護士になったそうである。「昭和十五年、私の満州の店で、劇的な再会をしたことがある」と早川は書いている。

2015年12月11日金曜日

稲垣浩(映画監督)


隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています
稲垣浩[1905 - 1980年]・映画監督)

(「週刊読売」197596日号「50人証言 関東大震災」より)


解説◎
週刊読売の記事「50人証言 関東大震災」(197596日号)は、震災52周年記念企画として、有名無名50人の当時の経験を収録している。そのなかで朝鮮人迫害の証言を映画監督の稲垣浩がしている。