2015年12月15日火曜日

戒厳参謀・森五六が回想する中国人虐殺事件(大島町事件)

【森の日記の記述(1923年)】

十一月十二日 雨・曇 月《西大久保自宅》
朝八時半登庁、業務詳報ノ調製ニ従事シ、午前十一時一寸帰宅、平服ニ改メタル後登庁。午後一時ヨリ法務局長・湯原法務官・山下少佐(註―奉文。陸軍省軍事課員)・木下刑事部長・森島領事(註―守人)・永井保安課長等ト大島町ニ行キ、支那人迫害の現場視察ヲ行ヒ、三時半帰庁。業務詳報ヲ調製シ、五時退庁帰宅。

【森の回想(1968年)】

右の日記で、この頃王希天事件の審議が続けられていたことがあきらかである。この事件は前述のように、王希天ほか二百余名が亀戸の小岩付近で殺害されたのである。十二日に現場を視察したが、付近は湿田で牛乳屋の牧場が散在し、ポプラが畔道(あぜみち)に散植されていた。殺害場所がどこかハッキリしないし、案内に来た警部補の話でも、同人がはじめて実見したときは、屍体を一見して数十名と目算したが、数えて見て二百を越すのに驚いたという。そこで、殺害場所をなるべく狭い場所ということにしようという相談をした。この事件は中・朝労働者に対する反感が著しく反映していたらしい。汪兆銘一行が来たときどのように回答しようかというので、回答文が審議され、外務省の松平(のちの宮相)・出淵両局長が原案を提示し、これを外務省に一任するということになった。このとき湯浅警視総監が、
「警視庁が嘘をつくのは嫌ですねェ!」
といったのを思い出す。

       (森五六・述/山本四郎・編「関東大震災の思い出 一戒厳参謀の日記と回想
『日本歴史』日本歴史学会編集19699月号)
注:文中の「註」は『日本歴史』原文編者・山本教授によるもの。

解説◎
上記は、関東大震災時に戒厳司令部で参謀を務めた森五六氏(当時、中佐)の日記と、それを踏まえた回想を口述したものを、山本四郎・華頂短期大学教授が筆記し、森氏がそれを校閲するという手順で書き残されたものである。

ここで語られているのは、一つには、亀戸の南、現在の江東区大島付近で93日に起きた、民間人と軍人による中国人虐殺事件(大島町事件)の現場視察の様子。「亀戸の小岩付近」は森氏の記憶違いだろう。大島町事件の様相については、ブログ『9月、東京の路上で』「中国人はなぜ殺されたのか」を読んでいただきたい。

もう一つ、ここで語られているのは、外務省、軍、警視庁が顔を合わせての虐殺事件の隠蔽についての協議の様子である。大島町の虐殺では生存者が一人だけいた。彼が上海に帰って中国メディアに虐殺のことを伝えたために、中国では世論が沸騰し、北京政府が東京に調査団を派遣することになった(「汪兆銘」も森氏の記憶違いで、正しくは「王正廷」)。そのため、政府は117日の五大臣会議の席上、中国人虐殺事件を出来る限り隠蔽することを決めたのである。それについては、当時の政府の内部記録を発掘した田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)に詳しい。

ちなみに、森氏の日記の19231214日の日付には「軍事課ニ到リ、大島事件ニ就テ当事者岩波少尉ヨリ希望ヲ聞ク」とある。岩波少尉とは、大島町事件で民間人とともに中国人を虐殺した、まさに「当事者」である。軍はそれを知っていたし、1980年代に発見された内部文書「関東戒厳司令部詳報」には、その記録も残されていた(下記ブログ参照)。にもかかわらず、岩波少尉を訴追することはなかったのである。

参考リンク◎
ブログ「9月、東京の路上で」

田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫、2014年)