2014年11月25日火曜日

目黒の町議等が通行人を銃撃 │ 国民新聞1923年9月30日


国民新聞1923年9月30日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】


目黒の町議等が通行人を銃撃
自警団またも暴行

府下荏原郡目黒町上目黒の自警団員同所五四六電気機械並びに米穀商で町会議員吉永竹蔵(五〇)同中渋谷五七三建具商太田太平(四三)は、去る二日午後八時頃、上目黒大坂上西郷山附近で震災に遭って避難すべく通行中の中目黒五六〇羽根田平次郎(三五)に対し、返答が怪いといって吉永は二連発の猟銃で羽田(羽根田?)を撃ち両足に貫通銃傷を負はせた上、さらに太田はマサカリで斬り付け、瀕死の重傷を負はせた。被害者の羽田(羽根田?)は第二衛戌病院で目下療養中だが生命危篤。加害者の吉永および太田は二八日、世田ヶ谷署の手に取り押へられた。

五十八名の労働者を数珠ぎにして虐殺 │ 北陸タイムス1923年10月14日


北陸タイムス1923年10月14日
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】 


五十八名の労働者を数珠(じゅず)繋ぎにして虐殺
流言蜚語に迷って逆上していた/熊谷自警団の大暴虐


【東京電話】
九月八日午後四時震災のため東京府下から避難して来た労働者五十八名が市外板橋に設けられた臨時憲兵分遣所の取調べを受た結果、一時検束の必要を認め、高崎へ護送すべく、五十八名のものはことごとく両手を細引で縛り数珠繋ぎにし、十二名の警官これを護衛し、中仙道を埼玉県熊谷町に向かふた処、附近沿道の自警団多数の野次馬も加はり前後両側を取囲んで熊谷町分署についた。
この時熊谷在郷軍人分会員は、右五十八名の労働者は分会の手で一先づ保護すべく引渡し方を交渉したのであるが、護送の警官が応じないのでそのままに本町通りへ入った。

 それより先熊谷町自警団員は前日来の流言蜚語のため恐怖の念に駆られ、消防組を中心に自警団員に附近村民も加はり、日本刀棍棒竹槍を携へ、町内が警戒するに共に、一方列車が着車するごとに列車内の怪しきものを警戒しつつある際、前記護送されて来た労働者を見るや、多数の自警団員は大挙して喊声をあげつつ本町通りに一行を襲ひ、数珠繋ぎのままの横合から凶器を振って一斉に斬り付け、又殴り倒したが、縛られているため逃げ出すことができず、悲鳴を揚げて助けを乞ふも何の容赦なく、熊谷寺との間三町余りの街路で惨酷にも虐殺してしまひ、これを見ていた警官も手の下しやうなくただ傍観するより外なく、町民もさすがに自警団の暴行に顔をそむけ、血に染って横はる死体を見て同情の涙を注いだ。
さしも獰猛を極めた自警団の引き揚げたのは午後十時であったが、軒並に戸を閉じて誰一人死体を処理するものはなかったが、町長代理新井助役は、町民の過失に問はるるを除かんため単身死体を岸村草原大原墓地に運び、神原竹松に云い付けて翌朝までにことごとく焼却した。
この際神原が死体の懐中から多額の金品を窃取した。


又同町寄居町でも六日夜、行商人が危険を感じて寄居分署に保護を願ひ出で留置室にこもってゐたのを、用土村消防等と青年多数が不法にも同署を襲ひ惨殺した。
又妻沼町にても、長野県青年某が自警団に虐殺されたので妻沼署員馳せ付け犯人を検挙した処、自警団は是を取返さんと警官隊と衝突し争闘を惹起したが、当日あたかも警戒に出張した金沢師団第七連隊の将卒が馳せ付け、わずかにことなきを得た。
これに対し先月二十四日以来判検事出張本庄熊谷妻沼方面から百余名検挙せられ取調べ中であったが、本月九日一段落を告げ二十二日頃公判に附せらるるはず。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

解説◎熊谷事件、寄居事件を伝えた記事だが、この時点ではまだ朝鮮人虐殺の報道が解禁されておらず、被害者はみな「労働者」とだけ書かれている。
事件の日付は8日とあるが、これは誤りで、実際は熊谷が4日、寄居が6日未明。また、神原竹松さんが遺体から金品を奪ったという記述にも根拠がない。
単身、遺体を集めた新井助役は後に熊谷市の市長となり、朝鮮人の慰霊碑を建立した。
現在、熊谷市は、市の主催で彼らの霊をなぐさめる慰霊式を毎年9月1日に行っている。


◎熊谷事件について

 ブログ『9月、東京の路上で』「地方へと拡大する虐殺」 →


◎寄居事件について

ブログ『9月、東京の路上で』「なんじの隣人を」  →

 熊谷で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式 悲惨な歴史を教訓に → yahoo! ニュース

護送中の鮮人を奪って虐殺 │ 河北新報1923年10月22日



河北新報1923年10月22日(21日夕刊) 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

護送中の鮮人を奪って虐殺
千葉県東葛飾郡の自警団青年員


千葉県東葛飾郡でも不憫(ふびん)の流言に鮮人が不安に陥り、同郡八栄村北総鉄道工事場の鮮人工夫が危険に頻したので、同会社から習志野騎兵連隊に保護を願い出て十三名の兵士が二十七名の工夫を護衛して五日午後船橋警察署に向う途中、避病院前に差しかかるや、同町消防組青年団十六七名が凶器を携え船橋署に後送する鮮人の引渡し方を迫り、兵士の姿没するや直にこれを虐殺して同町夏見仮埋葬場に埋めた(東京電話)


解説◎
この事件については、当ブログ「記憶を刻む」において、現場にかけつけた巡査部長(戦後は自民党千葉県議)の渡辺良雄さんの証言を収めている→渡辺証言
渡辺さんの証言では現場で確認した死者数は53人(うち女性3人)。司法省の報告では、この虐殺で立件された死者数は38人となっている。

暴徒と誤り九家族射殺 │ 北陸タイムス 1923年10月13日夕刊


北陸タイムス 1923年10月13日夕刊
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】


暴徒と誤り九家族射殺
二人だけ辛ふじて助かる

【呉電話】呉市上古江谷瀬嘉吉(六〇)の長男政一および政一の妻みよの、長男信夫、次男秀松は、東京で土方稼ぎ中震災に遭ひ、同僚の八家族と共に九月五日、千葉県匝瑳郡野田村に避難したところ、同所を警衛する青年団および消防隊に異様なる服装のため暴徒の一団と誤られ、政一一家は長男信夫を残し、仲間の八家族もただ一名を残したのみで次から次へと射殺され、最後にこの二人も殺される間一髪のところを巡査に発見救助された。そして信夫の本籍が呉市と判明したので、今回祖父嘉吉のもとへ送還して来たが、嘉吉も政一の仕送りで生活する身でどうすることも出来ず、とりあえず呉同済義会で救済することとなった。

2014年11月18日火曜日

不逞鮮人の暴挙は風説乎│北海タイムス1923年9月10日

北海タイムス1923年9月10日

【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】



不逞鮮人の暴挙は風説乎(か)
左様な事実は絶対にないと南谷検事正談

【福島経由青森九日発電】

南谷東京地裁検事正談)今回の東京大地震に対し、不逞鮮人が帝都に跋扈(ばっこ)しつゝありとの風説に対し、当局に於いても相当警戒調査し居るが、右は流言蜚語が行はれ居るのみである。
七日夕刻まで左様なる事実は絶対にない。もちろん鮮人中にも不良の徒もあるから警視庁に検束し厳重取調を行つて居るが、或は常習の窃盗乃至其他の犯罪人を出すとも、流言の様な犯罪は絶対に無いと信ずる。


解説 ◎
南谷検事正は東京地裁管区で自警団事件の捜査に当っていた人物。治安当局が流言が虚説であることを認識するに至り、6日以降、流言と自警団をはっきりと抑制していく方向に転換したことを反映したコメント。

鮮人に関する流言は無根│国民新聞1923年9月7日



国民新聞1923年9月7日 (号外)
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

鮮人に関する流言は無根

今回の大シンに当たりて往々無根の流言を放ち人身を惑はす者がある。其の甚だしき例を挙げると、四日舟橋に不逞鮮人三百名が上陸したと云ひ五日大崎町焼失したりと流言したる者があるが、共に無根の事実で、今後流言を云ひ振す者は治安維持の為めに厳重処分せらると(戒厳司令部当局談)


解説◎
震災発生から6日後の9月6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対する無法の待遇を慎め」などとする「注意」を発表。流言を罰する旨を記したビラを配布する。翌7日、出版や通信も含め流言飛語を罰する「治安維持令」が発せられた。なお、「鮮人」とは朝鮮人に対する差別的な表現であるが、歴史的記録としてそのまま掲載した。

東京ろうあ学校の生徒は半数以上生死が判らぬ│読売新聞1923年10月5日



読売新聞1923年10月5日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

オシやツンボが沢山/自警団に殺傷/
東京ろうあ学校の生徒は半数以上生死が判らぬ

自警団の暴行検挙は引続き行はれているが、大震災の当初、夜景団員は殺気立つて居たせいか誰何されて返事の出来ない多数のろうあ者が随分傷害され、半死半生の憂き目にあつた。
現に牛込矢来町一〇二の家井義雄(二二五五)は、大正九年三月小石川指ヶ谷の東京ろうあ学校の卒業生であるが、先月六日浅草からの帰途夜警団に殺されたと実父から同校に申し出てきた。
此の外、同校在学の生徒で生死不明の者が全生徒数の約半数に及んで居ると云ふが、其他一般の唖者の中にも半殺しにされた者があるのは、甚だ気の毒なことである。


解説◎
自警団や軍によって多くの朝鮮人が殺されたが、このとき、朝鮮人に間違えられて多くの日本人や中国人も殺されている。殺された日本人の中には、方言を話す東北や沖縄の人々、そして上の記事にあるように、聴覚障害者などもいた。なお、「おし」「つんぼ」は障害者に対する差別的な表現だが、歴史的な記録としてそのまま掲載した。

2014年11月17日月曜日

放火した自警団員│読売新聞1923年11月10日


読売新聞1923年11月10日 
【記事画像は山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』緑蔭書房から】

放火した自警団員
功績を認めた貰ふつもりで

自警団員として功績を認めてもらひたいため放火した男がある。
本郷コマ姥目蓬莱町一六赤城一郎(一八)で、同人は去る六日午前三時半頃夜警中同町五菓子商小室寅造方の軒下に空俵(からだわら)をたてかけて放火し、燃え上がると火事だ火事だと大声をあげて消し止め、自分のてがらにするつもりのところ発火原因の不審から悪事が露見したもので、九日朝、検事局へ送られた。
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。

解説◎
自警団をはじめ、日本人が放火を行って逮捕された記事は、このほかにも散見される。
警視庁『大正大震火災誌』によれば、警視庁管内だけで9月中に25件の放火があった。前年同期の5倍であるという。この25件の火災について同書は、「災後の人心の動揺と警戒の不備とに乗じ、平素の怨恨を晴さんとするものを以て其の多数を占め、其他或は悪戯」が多かったと書いており、政治的、組織的な犯行は認めていない。

2014年11月11日火曜日

後藤新平「無辜の民にして殺傷せられたる者少なからず」


闕下(けっか)に奉呈せし【せんとし】待罪書

臣新平嚢に大命を拝し之を内務大臣の要職に承く時恰(あたか)も関東地方大震災の直後にして人心恟々物情騒然たり。臣任に就きて夙野戦兢善後の策に腐心すと雖(いえども)敢て此の重責を果す能はざらむことを惧(おそ)る。幸にして爾後治安の維持成り人心安定を得近く戒厳の変態を撤して平常の状態に復することを得たり。是れ偏へに陛下の御稜威と陸海軍将卒努力の結果とに依る。
今次未曾有の震災は所在に火災を起し大火は遂に内務省に及べり、当時庁員の大半は其の安全を確認して既に退庁したるも残留の庁員必死防火に努むるあり、四辺悉皆火災の中に在りて独り社会局は其の全きを得たり而(し)かも内務本省は遂に類焼の厄を免れず、僅(わず)かに重要書類の一部を搬出し得たるに止まり、庁舎竝(ならびに)書類の大部を烏有に帰せしめたるは臣の最も遺憾とする所なり。
震災後に於ける異常なる人心の不安に伴ひ流言飛語盛に行はれ秩序漸(ようやく)く萎れむとするや民人自衛の方途として各地到る処に自警団の組織を見たり、然(しか)るに此の時に際し鮮人妄動の浮説忽然として発し一犬虚に吠へて万犬実を伝ふるに至り眼前に展開せられたる惨害を以て鮮人の所為に帰せむとするものあり、而(し)かも取締の官吏極力之が防遏に努めたるも遂に人心極度に興奮して常軌を逸し自警団中には自制を失して暴挙に出でるものあるに至り為に無辜の民にして殺傷せられたる者少なからず。臣新平治安保持の重任を辱め事此に至らしむ誠に恐懼措く所を知らず。
茲(ここ)に臣の責任に関し状を具して以て 聖鑑を仰ぎ伏して罪を閥下に待つ 臣新平誠恐誠惶謹みて奏す 

大正十二年十一月 内務大臣 後藤新平
(姜徳相・琴洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

解説◎
闕下とは天皇の前に、ということ。「待罪書」とは、自らの罪を明らかにして進退を伺う書のこと。震災翌日の92日に内務大臣に就任した後藤新平18571929年)が、同年11月に、天皇に奏上することを想定して清書し、手元においておいたもの。死後に残されていた「後藤新平文書」の一つ。
冒頭に、【せんとし】とあるのは、後藤本人がそのように書き添えたもの。【 】でくくったのは、読みをあらわすために当サイトで書き入れた( )と区別をつけるためである。

後藤はこの文章で、内相として進退を伺うほどの罪(天皇に対する)として、内務省の全焼と流言飛語による朝鮮人の虐殺を挙げているわけである。

工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(その“新版”が加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』)では、後藤が朝鮮人暴動の実在を隠蔽するために芝居を打ったという文脈でこの文章の一部が引用されている。後藤は天皇にまで「芝居」を見せるつもりだったというのだろうか。
彼らの空想物語に付き合わずに虚心に読めば、これは後藤が朝鮮人虐殺を防げなかった責任を「罪」として語っている文章ということになる。

しかも、工藤美代子/加藤康男は、上の文章から「震災後における~」以降を引用するにあたって、「一犬虚に吠へて万犬実を伝ふるに至り」「而(し)かも取締の官吏極力之が防遏に努めたるも遂に人心極度に興奮して常軌を逸し」の2箇所を(略)と示すこともなくこっそり略している。上の引用では、その部分を青の太字で示した。
工藤らは一応、「長文なので概略のみ引用したい」と断り書きを添えているが、流言の虚構性や自警団の異常さを強調した部分を、あえて削っていることが、通読してみるとよく分かる。
ちなみに、工藤夫妻は、後藤がこの「待罪書」を実際に天皇に奏上したと断言しているが、これは全くの誤りである。実際には奏上しないで終わったものだ。

2014年11月5日水曜日

浅草の虐殺

あれはね、九月一日ですよね。震災にあったときは。一日は上野にいて、二日の晩なんですよ。結局もう二日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。
その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるからそのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよねだから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。
その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人も悪い朝鮮人も全部かまわずにね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池の中でもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて、死骸はね、その場にあるかと思ったらないで、そのままもってったんですね。どっかへ。震災で死んだ人と一緒に入れちゃったんじゃないんですか。


(略)


殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたになって連れていかれた。
三人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、五、六人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだー、って。そしたらひょうたん池から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、三十二、三の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。
夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。でもそのときには毒入れたって頭があるから、憎らしいが半分以上なんでしょう。みんなが飲めないんだから、水、水っていったって。そいでもう火をつけたのがみんな朝鮮の人だとか、やあ何だとかって。


(略)

ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。いやですねえ、そんときその場で殺さなくたってさ、収容するとこ連れてってよく調べてからね、人の前でやらないでね。まあ日本人もあのときは気が立っちゃったんでしょうけどねえ。

(略)


あんときはほんとにいやでしたよ、あたしも。十六ですもの。十六で男の人の殺される血を見るって、とってもいやですね。鼻血はたらすね、叫び声もひーって。わあーっていうんじゃない、ひいってね、すごいの。
あたしそれでしばらく御飯食べられなくて。震災の時何も食べるものがないどころじゃないの。食べられないの、気持ちわるくて、御飯が。あの声だからね、ひょうたん池がなくなったんであたしかえってよかったと思いますよ。今頃あすこにひょうたん池があるとあれを思い出しちゃうからねえ。
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで関東大震災の聞き書き」『新日本文学』200010月号)
注)読みやすさを考慮して改行を追加しています。


解説◎
「ひょうたん池」があったのは浅草六区の東、現在の花やしき前からJRA場外馬券売り場にかけてのあたりだったようだ。参考記事→「瓢箪池(ひょうたんいけ) 誕生と 消滅と



作家の高良留美子[1932 − ]が知人の香取喜与子さんから聞き取ったもの。香取さんは震災当時、上野と浅草の間にあった鉄材店を営む実家に住んでいたが、震災直後は浅草ひょうたん池の近くに避難していた。聞き取りそのものは1970年ごろに行われたようだ。高良は聞き書きの解説でこう書いている。
「ここに発表する機会を得て、ようやく数年前になくなった香取さんにたいして、また何よりもひょうたん池のほとりで非業の死を遂げた方たちにたいして、いくらかの責任を果たすことができたという思いがする。/今この聞き書きを読み直してみると、事態の残酷さ、理不尽さに絶句する思いがする。非常の場合にこそ、人間の普段からの心がけや人格が表れるとすれば、私たちはほぼ八十年後の現在、当時のような心性を克服することができているだろうか。そのことを考えるためにも、過去を何度も想起し、知らなかったことを掘り起こして記憶にとどめることが大切だと思う」